160 「ガントレット」 極悪な脚本を、映画屋としての本能だけで観れるものにしたイーストウッド | ササポンのブログ

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今回は
ちと
変わったことを

つまり
同じような設定で
同じようなシチュエーションで
同じようなキャラで
映画を撮ったとしても
脚本の良し悪しで
こんなにも違うという
実例を
今回と
次回の作品で上げます。
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まずは、
「ガントレット」。
これは、もちろん脚本の悪い例です。

最初に言っておきますが
僕は
この作品が嫌いじゃありません。
「ブリット」に続いて
この作品も
脚本は最低だけど
監督の力と
役者の魅力で
なんとか観れるものにしました。

しかし
ここでは脚本を問題にしますので
はっきり言って
ボロクソに言います。
いや、もう
ボロクソに言われても仕方がないほど
ひどい本です。
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まず最初から
結論じみたことを言ってしまいますが
なにが最悪って
この映画においての
最も大切であるはずの部分
主人公のショックリーが
仲間の警官よりも
娼婦のマリーを
信頼していく過程というのが
全然、
描けていない。

どんなに
組織の中のやさぐれものでも、
内部の人間であれば、
その絆もかなりのものである。

実際に、
ショックリーは、
内部の人間と連絡を取っている。

それがどうして
マリーを信頼して
警察の内部の裏切りに立ち向うようになったのか・・。

この過程が
ちゃんと描かれていなければ
この映画自体が
成り立たない。

つまり
本としては
全然、
成り立ってない。


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この映画を観ていると
なんか
マリーに欲情したショックリーが
彼女にいいところを見せようとして
警察に突っ込んだ・・と思えてしまう。

いっそのこと
そっちのほうがおもしろかったかもしれない。

とにかく言っちゃ悪いが
ショックリーの心情がまるっきり見えてこないのだ。
それゆえに
キャラも全然、魅力的じゃない。

娼婦のマリーももう類型の見本みたいなキャラである。
娼婦なのに知的・・これだけでも、もう完全に娼婦を見下している。
つまり娼婦というのは、
本来は知的ではない・・と言っているようなものだ。
さらに言えば
演じるソンドラさんが
全然
知的な娼婦に見えない。
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そんなスカスカな本を
監督のイーストウッドはなにで補充したかと言えば
銃弾である。

もうただひたすらに
呆れるぐらい
撃ちまくった。
なにも家が崩れるまで撃たんでもいいじゃんって・・。

ラストシーンの突っ込みも
銃弾の嵐も
見世物としてはおもしろいが

そこに行くまでの心情が
全然、
描けていないので

そこに行くまでの
やむにやまれぬ心が
わからないので
ただ、もう
ドカンバカンガンガンである。

同僚のジョゼフインが説得に来て撃たれたところなど
もうダメな脚本の見本である。
心情的な説得力がないから
善人であり信頼できる人間をひとり殺して
無理やりに気持ちを怒りのほうにむけるという
もう
へたくそな脚本家がよくやる
最後のクソ悪あがきである。



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はっきり言うてしまうが
この映画は
イーストウッド映画の中でも
ワーストの部類に入る。

元々、
バーブラストライサンド共演で
歌手と刑事の物語だったらしい。

だが
出来あがった映画がすべてであるがゆえに
そんな事情はどうでもよろしい。

スカスカの脚本を
イーストウッドの映画屋としての
本能でなんとか作品として仕上げたのだろう。

俺の魅力と
かわいいソンドラちゃんと
銃弾の嵐でなんとかなるだろう・・と。

実際、
映画として
なんとかなってしまったところが凄い。

その辺のところはやはり
イーストウッドの映画屋としての
本能の凄さだろう。


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しかし
この物語自体が
つまらないというわけではない。

証人を迎えに行った落ちぶれ警官と
その証人
そして
その証人を消そうとする者たち


よくあるシチュエーションだけど
これを見事な脚本でやれば
どれほどすはらしい作品になるか

次に取り上げます。

ちなみに
僕は
ソンドラロックという女優さんに
針の頭ほども
魅力を感じません。
僕は
どれだけ綺麗でもかわいくても
全身から性格の悪さがにじみ出ている
品のない女性が嫌いです。