
クレメンツァの言う「もっとひどい状況」というのがはじまった。
この辺のところは、
映画よりも詳しい原作から引用します。
まずコルネオーネファミリーのメンバーで
衣服組合の有力な議員が二人殺害される。
そして
金融業者と賭け屋が埠頭から追い出された。
湾岸労働者組合の支部がすべて他のファミリーに寝返り
街じゅうのコルネオーネファミリー配下の賭け屋は
裏切るように脅迫された。
しかし
一番の問題は
コルネオーネ・ファミリーの肥満状態だった。
ヴィトは、衰弱がひどく陣頭指揮を取れない。
つまりファミリーの政治力はないに等しかった。
また平穏だった10年の間に、
クレメンツァとテッシオ両幹部の戦闘能力は
かなり削減されていた。
クレメンツァは、依然として有力な死刑執行人であり管理者ではあったが、
軍勢を率いるにははつらつとした力強さに欠くようになっていた。
テッシオは、年と共に円熟みが増し、冷酷になりきれないところがあった。
トムハーゲンは、
その優秀な能力にもかかわらず
戦闘時の相談役にはまったく向いていなかった。
そして彼の最大の弱点は、シシリー人ではないことであった。
しかし
ソニーコルネオーネは
それらの弱点を認識しながら
それらを修正する処置を取らなかった。
いや、
取れなかった。
相談役や幹部の刷新ができるのは
ドンであり、父でもある、ヴィトだけだからだ。
彼は、父親が回復するまで守りの姿勢を貫くつもりだった。
しかし
敵対する5大ファミリーの上記のようなテロに対して
収入も減り、立場は不安定なものとなっていった。
ソニーは
5大ファミリーのドン、抹殺計画を練ったが
これも実行前に、失敗に終わった。
かくしてコルネオーネファミリーと
5大ファミリーとの対決は
膠着状態に陥った。
こんな膠着状態の中、
ソニーは5大ファミリーと無意味な小規模の戦闘を続け
相手、そして自らも消耗していた。
ソニーは
優秀な戦術家であつたが、
父、ヴィトのように戦略家ではなかった。
それゆえの
悲劇的な結末を
ソニーは
自らの血で染め上げることになってしまう。
料金所でのソニーの銃撃シーンで
最も衝撃的なのは、
散々に弾丸をぶちこまれたソニーの身体に
さらに
至近距離から、ぶち込み、
その上
銃撃者が、
ソニーの頭を思い切り蹴りあげるシーンだ。
死体の頭を思い切り蹴りあげる・・。
暴力的な表現というのは
ただ血が出ればいいのではない。
暴力映画の極地と言われた
「ダーティハリー」も
さほど血は出ていない。
それは
暴力を行使する人間の
兇暴と冷静を表現することである。
撃ち殺した相手の頭を蹴りあげる。
この行為の兇暴と冷静、
殺した男にとって殺しというのは
日常である。
そして殺されたソニーにとっても
殺しは日常だった。
だからこそ
日常に生きる人間が眼をそむけたくなるような暴力を
彼らは直視できるのだ。
自らが作り上げた暗黒世界が
招いた結果とはいえ
葬儀屋ポナッセラに処理を頼まなくてはならないほど
破壊された自分の息子の姿を観る父親の気持ちは
悲しみ以外ないだろう。
これもすべて
あのソロッツォとの会談における
たった一言の、ソニーの失言からはじまったのだ。
サンティノ・コルレオーネ、通称ソニー。
享年32歳。
この愛すべき激情男を
見事に演じきったジェームズカーン。
彼の人間的な魅力がなければ
この役が
これほど愛されなかっただろう。
この役はこの映画に人間的な暖かさをくわえたと言ってもいい。
もしマイケルしかいなければ
この映画は、
冷酷な権力闘争映画になっていただろう。
感情と激情に走り破滅した彼こそが
最も人間的だといえるのではないだろうか。