
サン・ロコの祭りの聖なる喧噪と
ヴィトの冷静な殺し。
この聖なる儀式と
殺戮の血の儀式の
モンタージュ。
コッポラがこの映画で幾度も繰り返し描いた
象徴的な対比だ。
薄暗い廊下で
ファヌーチを待つヴィトは
手に持った拳銃を
包帯のようにぐるぐる巻きにした白い布で隠している。
階段を上がってくるファヌーチを
何の躊躇もなく撃ち殺す。
燃え上がった白い布の火を
冷静に消すと、
屋上で拳銃を壊し
煙突に捨て、
自宅に戻る。
初めての殺しを
これほど冷静に行えるヴィトの冷酷さ。
当然と言えば当然である。
父や兄、
そして目の前で母親が殺されているのだ。
ヴィトにとって殺し、暴力は日常なのだ。
これは
後々に
マイケル・コルネオーネが
世間の常識で裁かれる部分と繋がっていく。
暴力が日常な生活が
暴力とは無縁な人々の常識で測れるものではない。
理解できるわけがない。
ファヌーチ殺しを仲間に言わなかったヴィト。
しかし
それを気配を悟った仲間たちに
ヴィトが微笑みかけた。
このときの微笑みの恐ろしさを
見事に表現した原作を引用します。
そこには全く気負いがなく、それだけにいっそうぞっとするのだった。
彼は、自分にしかわからない冗談のように笑って見せるのだ。
だが、彼がそのような笑みを浮かべるのはいつも重要な事件の際であり、
個人的な冗談にしては、あまりにも見え透いており、
しかもその眼は笑っておらず
その上、外から見た彼の普段の性格が
大変理性的で穏やかなために
このように不意に彼が仮面を取り外すと
人は思わず逃げ腰になってしまうのだった。
まるでデニーロのために書かれたようなキャラではないか。
彼にこういうキャラをやらしたら、
敵うものはいない。
街のダニであるファヌーチを
ヴィトが殺したことは
二、三週間のうちに
近所の人間だれもが知り、
その結果、
誰もが
ヴィトを尊敬することとなる。
そして
必然として
大多数の弱い者たちに対する
強い者たちからの理不純な要求に対して
最初は理性的に
拒絶に対しては
暴力的に
弱い者たちの代わりの取り引きは
彼の仕事になる。
ヴィトはゴッドファーザーとなっていく。
このはじめての殺しを遂行した年に
マイケル・コルネオーネが生まれる。
デニーロが演じる若き日のヴィトの
最後のエピソードは
恐らく映画史に残る、最も暴力的な映像。
生まれ故郷、コルネオーネ村への帰郷である。
それは
必然的に、
肉親の仇である
ドン・フランチェスコ・チッチオを
殺す旅でもある。
ここで
観客の中には
この映画を見たことを後悔する人がいるかもしれない。
それほど恐ろしい
信じられないような
殺戮が展開される。
僕は
いまでもこのドン・フランチェスコ・チッチオ殺しのシーンほど
残酷で強烈で生々しい殺しのシーンを見たことがない。
歳老いて、
椅子からも一人では立ち上がれないドン・チッチオの腹に
ナイフを突き立てて
斬りあげるのだ。
そして
そのあとに
ヴィトは手についた血を
汚いものとしてなすりつける。
このときの
デニーロの立ち振る舞い、
宿願を果たしたという満足げな表情・・。
なんなんであろう
あのデニーロの孤高の姿は・・。
そのあと
デニーロ・ヴィトのラストシーンは
マイケルを抱いて
汽車の窓から
別れの手を振るところだ。
セリフは
「マイケル、さよならを言いなさい」
その顔には
あの微笑み、いつも重要な事件の際に浮かべる
個人的な冗談のような微笑みが浮かんでいた。