最初、劇場で観たとき
ラスト5分、観ていない。
再び
ビデオで観たとき
やっぱりラスト2分観ていない。
TV放映の時
人と観ていたのでやっとラストシーンまで観る。
でもエンドクレジットは観れない。
理由は簡単
号泣していたから・・。
もう一度、観ろと言われても
僕は丁重にお断りする。
いやだ・・二度と見たくない。
もう一度
この女の子が栄養失調で
死んでいく姿を見ろというのか・・。
いやだ・・絶対に断る。
僕はもの凄い映画だけど
二度と見たくない映画が2本ある。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と
この「火垂るの墓」だ。
なにがたまらないって
この女の子の声だ・・。
いま、思い出しても耐えられない・・目頭が熱くなる。
どういったらいいんだろう・・
かわいいとか、そういう範囲ではない。
あの声はもう胸が切り裂かれる・・。
それはきっとどんなひとでも持っている・・
幼き子供への懐かしき記憶・・
子供を持っている親には、
わが子の幼き頃の思い出。
兄弟がいた人間には
一緒に育ったときの記憶・・。
もう演技ではない。
演技しているんだけど演技じゃない・・。
演技だったら
こんなに辛くなるわけじゃない・・。
「兄ちゃん、どうして泣いてんの? お腹、痛いの?」
ああああ・・・・いやだいやだ・・。
書いてるだけで
あの声がよみがえって、
涙が出てくる。
高畑勲というひとは、
感情を表現する手練手管においては
宮崎駿も
かなわないほどのテクニックを持っている。
とにかく
「母を訪ねて三千里」において
彼の感情表現のテクニックによって
日本中の感情がかき乱されたのだから・・。
普通のひとならあんなに母親との再会を
引き伸ばさない。
マルコをあそこまで
追い込まない。
ある意味、人でなしである。
この人でなしというのが映画監督として
最も大切なキーワードなのだ。
昔、あるシナリオライターが
ある監督を称して
「普段は凄くいいひとで妹がいたらお嫁にあげたいぐらいなんだけど
いざ、映画がはじまると、こいつぶっ殺してやろうか、と思うぐらい人でなしになる」
別に物凄い物語があるわけじゃない。
戦争中なら
普通に起こるべきことを
描いているだけだ。
実際に起こっていることは
辛いことだけど
これをあっさりとへたにやられたら
ああ、そうですか・・となってしまう。
ところがである。
この高畑勲というひとは
徹底的に丁寧にやった。
もう病的なほど
丁寧にやってしまった。
このひとの手にかかったら、
小さな兄妹の死が
世界が滅亡するぐらいの
大悲劇になる。
別に地球の犠牲になって
ブルースウィリスが死んでも
ゲラゲラと笑えるだけなんだけど
この映画の、女の子が死ぬ
この映画の、男の子が死ぬ
それだけで
涙が止まらないのだ。
戦争反対とか・・
そういうもう領域ではない。
人間の死がこれほどまでにも悲しいものだと・・・。
この原作に関しては
なかなか映画化の許可をださなかった野坂昭如を
号泣させ、アニメ恐るべしと言わしめたのは
高畑勲という
恐るべき、人でなしの手練手管による
感情表現以外のなにものでもない。
この映画があるのに、
同じ原作を映画化しよう、
ドラマ化しようとする気持ちがわからない。
この映画以上の
「火垂る墓」をつくれると
どういう頭が考えるんだろう。
もしこのアニメも
ドラマも観ていないというひとは、
絶対にアニメだけを観て
原作を読んでください。
ただし
本気で辛いです・・。
呼吸困難になるほど泣きます・・。
僕はもういやです。
観たくありません・・。
こんな徹底的な悲劇・・・
おまけ画像です。
弁当箱、開けて、これが出てきたら・・食べながら泣きます・・。