「明日に向かって撃て!」  (2) | ササポンのブログ

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鉄道会社の雇った一流の追手から
逃げながら
知り合いの保安官に頼って、
軍隊にはいる堅気になると告げるが
聞き入れてはもらえない。

お前たちを人間的には好きだが所詮は
無法者・・。

さらにその追手の雇用期間が
ブッチとサンダンスの死ぬまでと知り
ふたりの運命は決まった。

未来の乗り物、自転車を捨てて
彼らは旅に出た

それまで封印していたような
バカラックの音楽が鳴り出す。
それまでリアルに徹していた画面が
一気にセピアな復古調になる。

つまり現実感が消失する。


死から逃れるふたりの非日常が
ボディガードという正業についた途端に
一気に現実的な死へと
そして西部劇へと戻される。

いままで人を殺したことがないブッチが、
正業についた途端
殺しの銃を抜かざるえなくなった。


「そりゃまあ、えらい時に告白してくれたもんだ」
そう言っているが
サンダンスは、当然、知っていただろう。
ブッチが殺しをしたことがないことを。
なぜなら
サンダンスがそうさせていたから。
なぜなら
ブッチが殺しが嫌いなことを知っていたから。
無教養で粗暴でなにをするかわからない男が
唯一の友達のためにしてやれること
それはひとより早く銃を抜き
ひとを殺すこと。

もっとリアルに撮りたかったとロイヒルが言うそのシーン
ニューマンの演技は
見事だった。

殺しのすべてを
サンダンスに任せてきた彼が
殺しをするとき
苦痛というより
戸惑いという顔をする。







そんなふたりのもとから
女教師のエッタは去った。
ふたりが殺されるのを見たくないから・・・

史実では、
エッタは娼婦だったという説がある。
ロイヒルは
「現実にはもっとタフな女だったんじゃないかな」という
しかし
設定は、別の史実にある女教師という説を取り
知的なキャサリンロスをキャスティングした。

ふたりが殺されるのを見たくないから・・・

なんと冷たい現実的な言葉。

つまりはふたりに巻き込まれて死にたくはない

愛する男に殉じて、
ズタズタにされる「俺たちに明日はない」のボニーとは対照的。
これはロイヒルのヒロイン像に共通する。
知的だけど、どこか冷たい。

エッタと去ったふたりは、
最後までふたりで過ごす。

普通ならどんなやつでもいいから
仲間にして徒党を組んで
強くなり延命を図るだろう。

ところがこのふたりは
ずっとふたりのままだ。

ロイヒルは、
このふたりの関係がおもしろいんだと言っている。
このふたりしか描かない。

エッタが去ったことで
ふたりは、
そして観客はいよいよ
死を覚悟する。


ふたりが軍隊の集中砲火を浴びて
戦うシーンの銃撃戦はすさまじい。
死ぬことの恐怖が増幅されるような
銃撃戦だ。









メイキングで、
脚本のウィリアム・ゴールドマンが言う。
「どんなひどい脚本で、ひどい監督が撮っても、ブッチとサンダースのことを扱ったら
素晴らしい映画になるよ。それほど魅力的なんだ」

ロイヒルは、
このふたりの関係がおもしろいんだと言っている。
このふたりしか描かない。
ニューマンは言う。
「ロイヒルはかなり入れ込んでたよ。この撮影に入る前に、
かなり入念なリハーサルしたしね」

彼は、
この前も
この後も、
結局一本も西部劇を撮らなかった。

ブッチキャシディとサンダンスキッド


ふたりを西部劇という器にいれると
より輝いた
このジャンルが本来持つ力を得て
より見事に輝いた。
だから前回、僕はこの映画を
正統派の西部劇と書いた。

ただ脚本家のウィリアム・ゴールドマンにとつても
監督のジョージロイヒルにとっても、
この映画は
原題タイトル通りの作品だったのだ。

「ブッチキャシディとサンダンスキッド」

この原題タイトルこそが、
この映画のジャンルだったのだ。