36 「銀河鉄道の夜」 改訂版 わたくしといふ現象は假定された有機交流電燈のひとつの青い照明です | ササポンのブログ

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この難攻不落の不可思議に、挑戦した過小評価な3人の男たち。
一人目は、脚本を書いた別役実。


戯曲家。つまり芝居の台本を書く人。日本三大過小評価人物のひとり。その作品数は、すでに軽く1000本を超え、前人未到の領域に達している。その文体、つまりセリフは、あらゆる戯曲家に影響を与えながらも、いまだに独自性を保つ。作風もひとことではいいがたく、演出するひとによって喜劇とも悲劇とも、シュールとも取れる。



二人目は、音楽を作った細野晴臣。

このひとの過小評価は、自分から作り出しているものだから、しょうがない。つまり自分からメインになりたくない。常に脇に反れていたい。自分の作り出したモノが流行りものになった瞬間、そこから素早く逃げる。この映画の音楽のテーマは、「ゆれる」。はい、もうなにも言うことはありません。見事に「ゆれる」音楽です。


三人目は、監督した杉井ギサブロー。



大げさではなくアニメの誕生期から、生き作り続ける、偉大なる天才。あのカルピス子供劇場の一作目でスプラッタホラー「どろろ」を作り子供の心にトラウマを植え付け、「悟空の大冒険」でドタバタ喜劇のすべてを幼き心に焼きつけ、「タッチ」でアニメに間と、空白、を持ち込んだ男。





老練、老獪、狡猾、愉快、妖怪の3人が挑んだのが、難攻不落の不可思議、宮澤賢治。




その中でもその芸術性文学性娯楽性で、抜きんでた「銀河鉄道の夜」

結果は、すべて画面にあるわけなのですが、それで終わってしまっては、なんのためにこうしてクダクダ書いているのかわからない。
なら、なにを書けばいいのか。
わからない。
なぜなら僕は、いまだに、この小説、この映画がわからない。わかるわけがない。僕は、まだ40代の若造なのだ。
本当に心から愛するひとを喪ってもいない。つまり本当の悲しみを知らない。
だから本当にこの物語に、自分なりの解釈を持つことが、まだできない。

この物語を理解することなんか誰にもできない。なぜなら誰も宮澤賢治ではないからだ。

ただこの宇宙のように、奥深い物語に対して、そのひとなりの解釈はできる。
その解釈によって、そのひとの人生のすべてがわかる。そのひとの深さも、浅さも、すべてがわかる。だからとても怖い・・怖い作品なのだ。
この物語の不可思議に、この映画で挑んだ三人は、それぞれに自分の人生を映し出しているとおもう。才能とか感性とかいうそんな甘っちょろいもので、対峙できるモノではない。

40歳になって再び見て驚いた。この年になってやっと、この映画の凄さがわかった。これ以上の映画版「銀河鉄道の夜」を作ろうとしたら、別役、細野、杉井の三人を超える人生が必要なのだ。

もうこれ以降、この小説の映像化は、やめたほうがいい。
断言してやる。
これ以上の解釈による映像化は無理である。

そして最後にダメ押しの、常田富士男師による「春と修羅・序」の朗読である。こんなの卑怯にもほどがある。僕は、これを聞くと涙が止まらない。きっと僕が50歳を超える頃には、号泣するだろう。
いま、わからなくてもいい。
でも、あらゆる世代で観続ける作品です、これは。
そしてこれを本当に理解出来た時は、
あなたが、僕が、本当の悲しみを知るときです。

それは銀河鉄道に乗って旅立つときが近づいている証拠です。

歳を取るのは、そんなに絶望的なことではない・・と最近、思う。



わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

宮澤賢治「春と修羅」より  序