ペキンパー監督の、自分のままならない生涯に対する挽歌のような映画だ。
若く腕の立つビリーザキッド。そしてパットギャレット。
仲間だったふたりだが、パットギャレットは、すでに敵側の保安官。
それでもパットのことを「仲間」だと言うビリー。
この映画の主眼は、ほとんど、このパットギャレットに置いている。
自分を雇う判事に対する嫌悪を、持ちながら、アウトローを執拗に追い詰めていく姿は
「ワイルドバンチ」のロバートライアン演じるソーントンに通じる。
銃撃戦の末に、降参してきたビリーを見て、本当にうれしそうに笑うパット。自分の手で、殺さなくてよくなったからじゃなく、いま、この場で、彼の死体を見なくてよかった束の間の安堵。(コバーンの笑顔が、素敵だ。このひとの笑顔は、世界一。)
この後、捕まったビリーが逃げ出すが、相手を後ろから堂々と撃ち殺す、ダーティぶり。
銀貨の入った散弾銃で、保安官助手を撃ち殺した後、階段で、銃を叩き壊すシーンは、痺れる。
ここから物語は、
まるで生きることの、
悲しみで満たされる。
サム・ピケンズ扮する老保安官ベイカー夫婦とともにビリーを襲撃する。
パットギャレットは、サムが殺されることはわかっていただろう。
しかし一緒に、ついてくることもわかっていた。
腕が落ち、太ってしまった、この男にも、保安官としての誇りはある。
パットは、この男に自分の未来を見た。
姑息に、権力に取りついて、延命を図り、平穏な家庭で、仲良く夫婦生活を送る。
サム夫婦と一緒に、ビリーのいないところを襲撃、サムは、パットの予想通り、死ぬ。
寄り添い悲しむ、たくましい妻。
昔の仲間のアラモサを、保安官に仕立てたことで、パットの自虐的で不毛で意味のない復讐は、頂点に達する。
暖かな家庭生活があるここにビリーがくることはわかっている。
そうすればアラモサが、闘うこともわかっている。
そして殺されることも・・。
パットのそんな意図を知ったビリーの行動も、また吐き気をもよおすほど悲しい。
そうなれば、ラストの対決も、爽快感などあるはずがない。
ペキンパーお得意の、やけくそ暴力が炸裂する。
鏡に映った自分の姿を見たパットの行為がなにを意味するのか・・。
なにかといえば家族が大切と、主張する映画群。
またそれを否定するアウトローを必要以上にヒーロー視する映画群。
そのどちらでもない、ただ、生き続けることの苦味、厭さ加減を描き続けるペキンパー。
若いころ見てもおもしろい。
年老いてみても、かっこいい。
それがペキンパー映画。