16 「ビリー・ザ・キッド 21才の生涯」 生き残ることの苦み | ササポンのブログ

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生き残っているものだけが、醜く、老いていく。


ペキンパー監督の、自分のままならない生涯に対する挽歌のような映画だ。


若く腕の立つビリーザキッド。そしてパットギャレット。


仲間だったふたりだが、パットギャレットは、すでに敵側の保安官。


それでもパットのことを「仲間」だと言うビリー。


この映画の主眼は、ほとんど、このパットギャレットに置いている。

自分を雇う判事に対する嫌悪を、持ちながら、アウトローを執拗に追い詰めていく姿は





「ワイルドバンチ」のロバートライアン演じるソーントンに通じる。


銃撃戦の末に、降参してきたビリーを見て、本当にうれしそうに笑うパット。自分の手で、殺さなくてよくなったからじゃなく、いま、この場で、彼の死体を見なくてよかった束の間の安堵。(コバーンの笑顔が、素敵だ。このひとの笑顔は、世界一。)


この後、捕まったビリーが逃げ出すが、相手を後ろから堂々と撃ち殺す、ダーティぶり。

銀貨の入った散弾銃で、保安官助手を撃ち殺した後、階段で、銃を叩き壊すシーンは、痺れる。


ここから物語は、

まるで生きることの、

悲しみで満たされる。





サム・ピケンズ扮する老保安官ベイカー夫婦とともにビリーを襲撃する。

パットギャレットは、サムが殺されることはわかっていただろう。

しかし一緒に、ついてくることもわかっていた。

腕が落ち、太ってしまった、この男にも、保安官としての誇りはある。


パットは、この男に自分の未来を見た。

姑息に、権力に取りついて、延命を図り、平穏な家庭で、仲良く夫婦生活を送る。


サム夫婦と一緒に、ビリーのいないところを襲撃、サムは、パットの予想通り、死ぬ。

寄り添い悲しむ、たくましい妻。




昔の仲間のアラモサを、保安官に仕立てたことで、パットの自虐的で不毛で意味のない復讐は、頂点に達する。

暖かな家庭生活があるここにビリーがくることはわかっている。

そうすればアラモサが、闘うこともわかっている。

そして殺されることも・・。


パットのそんな意図を知ったビリーの行動も、また吐き気をもよおすほど悲しい。





そうなれば、ラストの対決も、爽快感などあるはずがない。

ペキンパーお得意の、やけくそ暴力が炸裂する。


鏡に映った自分の姿を見たパットの行為がなにを意味するのか・・。




なにかといえば家族が大切と、主張する映画群。

またそれを否定するアウトローを必要以上にヒーロー視する映画群。


そのどちらでもない、ただ、生き続けることの苦味、厭さ加減を描き続けるペキンパー。




若いころ見てもおもしろい。


年老いてみても、かっこいい。


それがペキンパー映画。