67年前の今日、広島に原爆が投下されました。
尊い命をなくされた方々のご冥福を祈ります。
そして、今一度、僕がこの活動をすることになったきっかけ、
なぜ広島にきたのか、
あらためて、記しておきたいとおもいます。
(HPより転載)
きっかけ
3.11.14:46
東日本大震災当日、私は東京新宿の高層ビルで仕事をしていました。
グラグラと大きく揺れ、ロッカーやパソコンやホワイトボードが倒れ、女性率の高かった職場は悲鳴の渦に包まれました。
緊急速報が鳴り響く携帯。
ニュースから流れる様々な情報。
「震源は宮城県沖、マグニチュード8.8、大津波警報が東日本一帯に・・・」
交通機関は全て麻痺、歩いて帰ると国道がデモ行進のように人と車で埋まっていました。
「福島にいる親戚、家族は・・・」電話もメールも一向につながらない・・・
無事が確認できたのは、地震から3時間後のことでした。
「家族を守るので必死だった。お墓はめちゃくちゃになってる。」
不幸中の幸い、内陸寄りだった親族は津波の被害を受けず、皆無事でした。
それから日々は、この日本で何が起きているのか、世界で何が起きているのか・・・
続く行方不明者の捜索活動、続々と立ち上がる被災地支援組織、向かう多くのボランティア。
営業支援事業のコンサルタントとしてプロジェクトに入っている私は、被災地に向いたい気持ちを押し殺して、その動静を見守ることしかできませんでした。
その年の7月、被災地からさらに離れた広島へ出張になり被災地にいる親戚・友人たちを後ろ目に発つことに。
2011.9.11、広島で子どもたちの未来を考える『震災・原発そして復興』というシンポジウムに参加。
そこで、福島の実態を福島大学准教授の西崎伸子さん、福島から避難してきたお母さんお二人から聞くことになります。
『真夏でも、子ども達は長袖、長ズボン、マスクをして、冷房の効かない教室で授業を受け続けているんです。
学校が終わっても、外で泥遊びや川遊びもさせず、まっすぐ家に帰させなければいけない。
子ども達から笑顔が消えていくのに我慢ができない・・・。
ただ、子ども達が普通に外で・・・遊んで・・笑顔で・・
私達は、すぐ避難しましたが、今も残っている親戚、近所の方々に何と思われているかと思うと・・・』
お母さんや、先生は言葉にならない言葉でお話しされました。
(震災はまだ何も終わっていない。これからがまた始まりなんだ。)
この時、広島に来た意義が腹に落ち決意しました。
原爆被爆者が今も生きるこの広島で、被災者を支援している人がたくさんいる。
自然災害や放射能の脅威にさらされた人達に、0から復興した広島からのメッセージだからこそ、強い意味を持つ。
それをきっかけに全国の人たちがたくさん、被災者支援に参加できれば
たくさんの人たちに夢、希望や勇気を抱いてもらうことができるようになるかもしれない。
被災者の方々の『忘れられることが一番怖い。』という言葉が今も脳裏に焼き付いています。
東日本大震災に限らず自然災害・人災の被災者、孤児・孤独なご老人、障害者の方々、失業者、
心に傷を持った人たちを応援することで
人と人の間に真の絆が生まれ、心豊かな世の中になっていって欲しい。
被災地には、仕事の問題、心のケアなど課題はまだまだてんこ盛りです。
「忘れない」「風化させない」為に大切なことは、
「人が人を思いやり手を取り合って助け合う」ことで
支援する人と、被災者の方々に真の絆が生み出されることだと思っています。
さらに「支援する」だけでは、真の復興は果たせないとも思っています。
真の復興とは、被災者の方々が「自立」すること。
そして、本来の日本人らしい
「手を取り合って助け合う思いやりに満ちた世の中」になっていくこと。
そういう意味での「心の復興」は被災者だけでなく、」
現代の社会においても必要なことだと考えています。
震災の被害は行政・自治体、一部のボランティアだけでは、とても手が回らないほどあまりにも規模が大きかった。
全国に散り散りになった、震災被災者34万人を超える方々に、ひとりひとりが心を寄せて
もしその方々が経済面、精神面でまだ立ち上がり切れていないのならその手助けをしたい。
そうやって世の中を良くしていきませんか。
戦後の経済至上主義の中で、失われつつある日本人の美しい心を今一度、取り戻したいと思います