永遠のいぶし銀 杉 孫七郎  | 萩往還を歩く

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幕末維新の志士たちが駆け抜けた歴史の道「萩往還」は城下町萩と瀬戸内の港三田尻とを結ぶ街道であります。さあ、今から、萩往還とその周辺を歩いてみましょう。きっと新たな発見があるはずですよ。

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杉 孫七郎は大内御堀に生まれた。



萩往還を歩く(山口市大内地区の巻)


世の中には、実力はないが、華やかさがある人。

華やかさはないが、実力がある人。さまざまである。


杉 孫七郎。彼は華やかさはないが、実力のある大人物である。


文久元年、いぶし銀 杉は、藩主の命により、

幕府の使節に従って、英仏の諸外国を巡歴。

井上聞多、伊藤俊輔が渡航したのは文久3年。

つまり、いぶし銀 杉は、彼らよりも早く海外へ渡航したということになる。


下関での外国との講和交渉の時、正使 高杉晋作を補佐。

ここでは伊藤や、井上の活躍はよく耳にするが、いぶし銀 杉も活躍した。


四境の役では、大村益次郎と共に戦い、石州口の参謀に。

その際は、名を杉山七郎と改めた。


明治天皇が山口御巡幸の際、伊藤博文らとともに、供奉員として同行。

また、陛下が大内御堀の植木邸(杉の実家かもしれない)で休まれた際、

杉は陛下に夏みかんをお見せした。また梅茶もお出しした。

いぶし銀 杉、さすが目配り、気配りの人だ。


それから、字の上手さは天下一品!

野村素介、長三州らとともに、長州三筆、明治三筆とよばれた。


高杉晋作の漢詩であるが、どうやら いぶし銀 杉 の手が

かなり入っているらしい。漢詩も得意だったのだろう。さすがだ。


維新後は、秋田県令、宮内大輔、特命全権公使、

内蔵頭、皇太后太夫等を歴任。その後は枢密顧問官兼議定官となり、

それらの功により子爵を授けられた。


そして、大正9年、86歳の生涯を閉じた。


萩往還を歩く(山口市大内地区の巻)


下関 吉田に高杉晋作の顕彰碑があるが、その撰文は伊藤博文。

そして書は杉 孫七郎によるものである。


「動けば電雷の如く 発すれば風雨の如し 衆目かい然

敢えて正視するものなし これ 我が東行高杉君に非ずや」


名文である。


しかし高杉の功績も、杉の補佐があってのもの。


伊藤の功績、名文も。杉の補佐、杉の筆があってのもの。


萩往還を歩く(山口市大内地区の巻)

永遠のいぶし銀 杉 孫七郎 


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彼のような男がいなかったら、

もしかして、この顕彰碑はなかったのかもしれない。