奇兵隊軍監 福田侠平は、高杉晋作をはじめ、
若い隊員からの信頼が厚かったようです。
きっと頼れる兄貴分であったのでしょう。
それではいまからそのエピソードを紹介しましょう。
侠平エピソードその1
禁門の変で敗れ帰国した時山直八は、
幼なじみの山縣狂介を奇兵隊陣中に訪ねた。
しかし、山縣は時山をののしり突き放す。
しかし侠平は時山に席を与え、話を聞いてやったらしい。
(やはり山縣とは違う。器が大きいなあ。優しいなあ。)
侠平エピソードその2
喧嘩の末、謹慎に処された、ちょっとひとくせある三浦梧楼が、
自決の恐れありと感じた侠平。
その三浦をまんまと言いくるめ、刀をとりあげてしまった。
その後、三浦は政界のご意見番(単なるうるさいおじさん)として、
大正まで生き延びた。
(ああ、一人の若者の命を救ったんだなあ・・・。
さすが機転がきくなあ。)
侠平エピソードその3
戦場で味方が不利になっても、酒を飲みながら
「まあ、その~にさおぐな。その~にあせんな。
(まあ、そんなに騒ぐな。そんなに焦るな。)」
と、陶然として指揮をした。
(まことに頼りがいがあるなあ。さすがだなあ。)
侠平エピソードその4
長府、功山寺で高杉晋作が挙兵しようとする時、
「この度ばかりは、お止まり下さい!!無駄死にをしちゃあいけません!」と、
降りしきる雪の中、馬前に踞して止めようとした。
それから後、戊辰戦争で勝利し、明治元年11月12日、
奇兵隊を引き連れて山口に凱旋した侠平は、
その足で下関に行き大酒を飲んだ。
ところがその2日後の11月14日。
卒倒し、そのまま息をひきとってしまった。享年40。
少年兵に酒をつがせる侠平
友人の山縣は、遺骸は萩 通信寺に葬り、
更に吉田清水山の高杉晋作の墓碑の隣に墓を建てた。
尚、住居であった大内村氷上には、同志により遺髪を納めた墓が建てられた。
更に、平成11年11月14日。大内地区有志の手により、
東行庵より分霊された位牌がこの地にも祀られ、顕彰されることになった。
大内氷上にある遺髪を納めた墓
以上、大内村誌、妙見社資料、朝日新聞
(となりのソファ「もう一人の花神」 松村邦洋君の記事)等
を参考に記してみました。それではご無礼します。