文学のチャンバラ   文壇アイドル論 | 百頭天使見聞記

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本、音楽、映画の感想

村上春樹、吉本ばなな、林真理子、村上龍、田中康夫、俵万智といった、80年代の文壇のアイドルたちを、彼らに対する批評文を引用しながら軽やかに紹介する。いやみの効いた面白い文章で、高見の見物といった風情である。

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90年代の「ポスト広告コピー」「ポスト口語短歌」が、第一生命の「サラリーマン川柳」であり、福井県丸岡町の「日本一短い「母」への手紙」(これは俵万智も選者をつとめています)であり、相田みつをによる『にんげんだもの』などのブームではなかったでしょうか。

 我が社風出るに出られぬぬるい風呂(『平成サラリーマン川柳傑作選』1991年)

 「私、母親似でブス。」娘が笑って言うの。私、同じ事泣いて言ったのに。ごめんねお母さん。(『日本一短い「母」への手紙』1994年)

 ぐちをこぼしたっていいがな 弱音を吐いたっていいがな 人間だもの(『にんげんだもの』1984年)

 洗練もワザもなし。こんなものが90年代に入ってからベストセラーになったのかと思うと、めまいがします。が、これらを「ええ詩やなあ」と思っているのは、『サラダ記念日』の読者と同じ層。「相田みつを現象」をつくった人たちがその前にはおそらく「サラダ現象」を支えていたのです。
(P74)

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  一般に「文学」と呼ばれている作品には、読者とのかかわりにおいて、基本的に二種類のものがあるとおもっている。/まず、決して読者の主体を侵すことのない作品というものがある。(略)わたしはこれを「読物」と呼んでいる。(略)たとえば村上春樹はあぶん、現代最高の「読物」作家であるはずだが、『ノルウェイの森』や『ねじまき鳥クロニクル』に深く魅了されたあなたはしかし、その後で、いままでとは何かまったく別のことをしようと欲したろうか?/これに対し、みずからの生の遠近法そのものの一部(もしくは大部分)を変えずには、とうてい受けとめられぬ力にみちた作品というものがあって、現代ではいよいよ稀少な部類に属するこの種の作品のみを仮に、厳しく「小説」と呼ぶとすれば、村上龍はまぎれもなく、そうした「小説」家のひとりである。彼の作品を読んだ後で、名状しがたいいくつかの力に貫かれながら、わたしはしばしば、何かを初めからもう一度やり直したくなるからだ。(渡部直己「戦士のように」/『五分後の世界』幻冬舎文庫解説 1997年)
(P248)

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引用したのは半分は孫引きとなったが、「めまいがする」といった物言いが文学好きからすると「よく言った!」という気分になるし、また引用の中にははっとささえられる気づきがあったりもする(渡部直己の「読物」と「小説」の定義)。
田中康夫に対する見方が少し変わった。受賞作は価値の紊乱を起そうとしたものらしい。
それと、四方田犬彦と田中康夫の論争のところは面白かった。デニーズとデリダ。デリダはデニーズを語ることができるが、デニーズはデリダを語ることができない。

相当の文章を読んでいないと書けない書物。その稼業はその稼業で辛いだろうが、正直一寸羨ましくもある。


(初版 2002年 岩波書店  2006年 文春文庫 斎藤美奈子著)