贅沢すぎる。この人は金に負けているな。身の程をわきまえよ。努力が足りない。――世情と同じく、私への相談・電話が増えている。その際、話を聞きながらも、上記の言葉が続いて頭に浮かんでくる。内容が「紙」の相談ではなく、「金」の相談にシフト(軸が移っている)している。それもまた焦りの度合いが日増しに増えて来ている。そして共通しているのは、「悪いのは自分ではなく、業界だ」(一般社会では、悪いのは自分でなく世の中だ)という訴え方だ。周りが全く見えなくなって、陥穽に陥っていることに気が付いていない。

まず、自分の立場を冷静に見ること。金の問題であるなら、「入りと止め」だ。止め=出金を限りなく零にしなければならない。「最低=予想される最低入金―返済金」の範囲にしなければならない。この法則は冷徹なのに、資本主義の罠が待ち受けている。即ち、日々贅沢になっていくことに慣らされている点だ。じわじわと進行するこの贅沢病にほとんどの人は気が付かない。十代の頃の自分の出金と比べてみることだ。それに加えて業界病がある。昔から新聞業界は休みが少ない為、刹那的享楽でストレスを解消しようとする。その典型が冠婚葬祭の派手さだ。余程しっかりした考え方を持っていないと、悪いほうに染まって、それが当り前とも思ってしまう。金もないのに、香典が万単位は明らかに間違っている。社も会も正さないから、私個人で抵抗し、正すことを見せ付けてきた。

日本国中不況に陥り、全体が低価格競争に入っている。自商品に他の近似商品に対する圧倒的な差別化、魅力を創り出せないからだ。そして人々は節約生活に入る。ただよく見てほしい。「金の無い人」の日常生活を。その人たちは本来、普通の人達の半分以下の出金で暮らしているはずなのに、そうは見えない。いまだ以前と同じレベルの生活をしている。これが販売店経営についても同じことが言える。経営者の義務は少しでも「益」を出すことなのだ。それが昔ながらの手法で経営していて、「悪いのは業界だ」と、言っている。ちゃんちゃらおかしい!

まず修身(自分の行いを正し、身をおさめること)である。当り前のことだが、他人と同じことをしていては、現在劣っている自分は回復できない。そんな中にあっても、自分の目的への義務はある。それは「経営責任」である。そして勉強する(本をたくさん読む、自分で決めたことを継続してやる)。このことは金が掛からない。先日の朝、娘の話し声が聞こえた。「お父さんは誰からも課せられていないのに、毎朝キチンと起きて、締め切りで追われてもいないのに、原稿を書き、本ばかり読んでいる。すごい!」義務を与えるのは自分であり、自分で決めた課題を継続実施する。努力が、「身の程をわきまえていること」に繋がると確信する。