ベン・シャーンはリルケの『マルテの手記』の一節に24点の版画を作りました。


さんにゴリラのらぶれたあ

この一節は、ことばを考えるうえで大事な示唆を含みます。


「一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣をしらねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞(はじ)らいを究めねばならぬ。



                     まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅。
さんにゴリラのらぶれたあ 遠くから近づいて来るのが見える別離。

ーーまだその意味がつかめずに残されている少年の思い出。喜びをわざわざもたらしてくれたのに、それがよくわからぬため、むごく心を悲しませてしまった両親のこと(ほかの子どもだったら、きっと夢中にそれを喜んだに違いないのだ)。


さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。静かなしんとした部屋で過ごした一日。海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海、ここの海。

空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。




さんにゴリラのらぶれたあ

いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。


一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。

詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。


さんにゴリラのらぶれたあ

死んでいく人々の枕もとに付いていなければならぬし、開け放した窓が風にかたことと鳴る部屋で死人のお通夜もしなければならぬ。

しかも、こうした追憶を持つだけなら、一向なんの足しにもならぬのだ。思い出だけならなんの足しにもなりはせぬ。



さんにゴリラのらぶれたあ
追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり、名まえのわからなぬものになり、もはや僕ら自身と区別することができなくなって、初めてふとした偶然に、一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生まれて来るのだ。」

(リルケ『マルテの手記』新潮文庫、大山定一訳)



体験が私の中に沈潜し、それらが渾然一体となった時に、ことばは生まれ出るというのでしょう。リルケのことばを深く受けとめたい。