ナースステーションから、
明るい未来への拍手や激励の声が
漏れ聞こえてくる部屋で、
主治医から検査の結果と手術の説明が始まった。


主な内容は以下の通り。


・病名は直腸癌。

・リンパ節、肝臓に転移しているためステージは4。

・原発である大腸の癌は開腹ではなく、腹腔鏡にて手術する。

・リンパ節への転移も可能な限り全て取り除く予定。


・ギリギリ肛門は残る。
あと数センチ下だったらストーマ(人工肛門)だった。

・転移した肝臓については、
癌の数が多く、広範囲であるため手術は不可能。

・化学療法、つまり抗ガン剤治療で癌を小さくして手術に持ち込めることを目指す。






「先生、私は生きられますか?」

震えながら姉が尋ねた。



この後の主治医の言葉を私は忘れない。



「厳しい状態ではあるけど、
ここから治療をして
この状態から生きた人って、
奇跡とは言えない程の確率でいるのも事実です。」


先生はそう仰った。


そして思った。


奇跡を起こすのは難しくても、
奇跡と言えない程の確率の出来事なら起こせるんじゃないか?

と。


真っ暗な絶望の中で細ーく薄ーい希望の光が見えた気がした。

決して前向きとかではない。


多分だけど、
本当にお先真っ暗、真っ黒、漆黒だったから、逆に細くて薄い光を感じられたのではないだろうか?

なまじっか明るい中で照る光は、
それ以上の強さでないと多分見えない。



とにかく先生は
嘘ではなく、

だけど、

希望を添える事を忘れなかった。




あと、先生は余命について一切断言しなかった。

「余命なんて神様しかわかりません。
誰かに決められるものではないし、
命を推し量る事は誰にも出来ない。」

そう仰った。


後から責任を追及されない為に

とか、

保身を考えている医師の発言では全くなかった。



そこには先生の患者に対する愛と、
手術に対する意志と、
自分の腕に対する自信と、
命に対する謙虚さが感じられて、

私は現実に対する絶望や恐怖の感情と
先生の愛と優しさに対するありがたい感情がごちゃ混ぜになって溢れ出し、

涙がでた。



姉も同じだったと思う。

『自分が生きられる可能性は低い』

という絶望と、

『奇跡程ではない』

という希望。


では奇跡とは言えないくらいの確率が
具体的にはどのくらいなのか、

それは先生も仰らなかったし、
私達も怖くて聞く事が出来なかったけど、

奇跡じゃないなら、何とか出来る!
きっと出来る!

そう思うしかなかった。

1000人に1人なら難しいかもしれない。

でも100人に1人ならなんとかなるんじゃないか?

100人に1人でも、その治った方法を100通り試せば100%治るって事だよね?

私はその100の情報を集めよう。

出来る事を精一杯やろう。


そう決めた。




相変わらず隣のナースステーションからは
拍手が聞こえていた。

先生がバツが悪そうに、

「ごめんね、明日から移動があって。。」

と仰ると、


人生で一番の絶望を感じているであろう時に、

「明日からちょうど4月ですもんね。」

笑顔で応じる姉を見て、


『なんでこの人が。。。』

と改めて思った。


こんな時に他人に気を遣える人が、
こんなひどい目にあっていいはずがない。

ならきっと、

治った先に想像も出来ない程の幸福があるんだ。

じゃなきゃ、こんな現実は絶対におかしい。

絶対治ってもらわなきゃならない。

試練である事は間違いない。

可能性の低い低い事に挑むんだ。

でも失敗はありえない。
姉が死ぬとかホントありえない。
何としてでも治る方法を探す。

そう決めた。

これまで必死で何かに挑んだ事なんてなかった。

一生懸命挑んだことはもちろんある。

でも必死、つまり、
成し遂げなければ〝必ず死ぬ〟という程の思いで何かに挑んだ事なんか今まで一度もなかった。


ダメだったとかはありえないが、
必死で挑むのだから、
万が一の時は、
私も〝必ず死〟だ。

誰にも言わなかったけど、
私はその時そう決めた。


悲しみを通り越し、
理不尽な現実に怒りさえ覚え、
抗う事を一人で勝手に決めた。


そう心が決まったとき、

姉は隣で震えていた。

震えるその手を
大丈夫大丈夫と言いながら強く握る母の手は
姉の恐怖を吸い取っているみたいに見えた。


その場では多くの言葉を交わさなかったけど、何がなんでも治すという気持ちは家族3人とも同じだったように思う。



先生が厳しい状況の説明の中に
嘘ではない希望を入れてくれた事は大きかった。


『余命は半年です』

と淡々とはっきり宣言されていたら、

もっと怖くて一気に心が壊れていただろう。



因みにその後お世話になった腫瘍内科の先生は、
この半年後、

「もし抗ガン剤してなければ、
今頃はいなかったよ。」

とはっきり仰ってたから、
この時の平均的な見立ては多分余命半年だったのだろうと推測される。


結局姉はこの日から15ヶ月後にこの世を去った。

この時にあり得ないと思っていた結末になってしまったのだが、

その間、
奇跡じゃない位の確率ならば
なんとかなる!
なんとかする!

と感じたこの時の思いがずっと心を支えていた。

そして、〝出来る限りなんでもやる!〟

そう思えて直ぐに踏み出せたのも、

この時の先生の言葉のおかげだ。

15ヶ月間、絶望だけ抱いて過ごす可能性だってあった。

というか、それがオーソドックスなシナリオだろう。





だけど、

姉は亡くなる3週間前に言ったんだ。


可能性のあった事全てをやり切った事に後悔はないと。


本当に色々あった。
色々あったけど、

後悔はないと言った清々しい笑顔のスタート地点は、

間違いなく、この日のこの場面にある。



方針は決まった。

奇跡
とまでは
言えないくらいの確率の
結果を出す!


私達は奮い立っていた。。。









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