米国大統領選挙も終わり現職の民主党候補、バラク・オバマ氏が引き続き米国大統領に就任する事が決まった。
オバマ氏はブルース、R&B等の黒人音楽に造詣が深く、また年代的にその思想や政治姿勢まで含めてヒップホップから多くのインスピレーションを得たヒップホップ・エイジの政治家として、つとに有名だ。
今回は米国のケーブルテレビ局のVH1が制作したギャングスタ・ラップのオリジネイター、文字通り世界で最も危険な~世界最凶のヒップホップ・グループだったN.W.A.のドキュメンタリーを紹介したい。
N.W.A. The World's Most Dangerous Group VH1 Rock Docs
N.W.A.とは"Niggaz Wit Attitudes"の略称でありネット上のデータベース等では「行動するニガ達」との和訳をよく目かけるが、「腹の座ったニガ」との訳文をどこかで目にした時にこれが一番、彼らの本質を突いたニュアンスだと感じた。N.W.A.は1986年にアメリカのカリフォルニア州コンプトンで結成され、1991年に解散する迄、その活動期間は僅か5年程だったのだが彼らの残した業績は正負両面を併せ持った社会的・文化的遺産としてヒップホップ史、いやポピュラー音楽史にその名を永遠に刻み込まれるものだろう。
まず番組では冒頭(3分過ぎ)、グループ結成の4年前の1982年に遡り、当時のロスアンゼルスで深刻化していたクリップスとブラッズという二大ストリートギャングの抗争と、その抗争の火種でもあったコカインとクラックの麻薬取引を巡る問題にスポットを当てる。ここでは南カリフォルニア大学教授のトッド・ボイドやラッパーのアイス-Tも語っているが、クラックとは煙草で摂取できる状態にしたコカインの事であり、安価であった為に1980年代初頭から米国の都市部の貧困層を中心に急速に普及し始め、その売買は多くのストリートギャングの資金源でもあった。
N.W.A.の創設者でありリーダーでもあるイージー・Eことエリック・ライトは真偽不明の数多の伝説に彩れている人物であるが、実際は小学校の理事と郵便局員の両親の下にカリフォルニア州ロスアンゼルス郊外のコンプトンという町に生まれ、幼少時は芝刈りや新聞配達で小遣い稼ぎをする真面目で地味な少年だったようだ。エリックは10代半ばから地元のクラブ『イヴズ・アフターダーク』というクラブに足繁く通い、そこで知り合ったアンドレ・ヤング~後にドクター・ドレーと名乗るようになる人気DJと知り合い、一緒に攣むようになった。アンドレは『ワールド・クラス・レッキン・クルーというエレクトロファンク・グループのメンバーとして活動していて1985年にレコード・デビューを飾るが大した成果を得られず、翌年もう1枚アルバムをリリースした後このグループは解散する。ワールド・クラス・レッキン・クルーにはN.W.A.に参加するDJ・イェラも在籍していた。やがてエリックはアンドレと音楽業界で成り上がってやろうという野心、物心両面に於いて同じビジョンを持った同士として活動を共にする事になる。次いでアンドレの主宰するパーティーに出演していたローカル・アクト、C.I.A.のメンバーであったオショア・ジャクソンことアイス・キューブが二人の動きに合流する。最初彼らは一緒にグループ活動をするというのではなく、ある種の音楽プロジェクトとして動き始め、まずアイス・キューブがある曲を書き、それをアンドレが見つけたニューヨーク出身のHBOというヒップホップ・グループにレコーディングさせようとした。が、そのHBOがその話に同意せず、仕方なく代わりにエリックがスタジオでマイクを取る事となってあの歴史的ギャングスタ・チューン、『ボーイズン・ザ・フッド』がレコーディングされたのだ。と同時にこれはキャングスタ・ラッパー、イージー・E誕生の瞬間でもあった。この曲はイージーが自ら配給先を探しあちこちのレーベルに売り込んだ末、1986年に12インチ・シングルとしてハリウッドのサンタモニカ・ブールヴァードに居を構えるローカル・レーベルのマコラ・レコードからリリースされた。
N.W.A. Boyz-n-the-Hood (Original version)
※1986年にリリースされた『ボーイズン・ザ・フッド』のオリジナル・バージョン。
9分過ぎに登場するグレッグ・マックはロスアンゼルスの名物ラジオ(AM)局、1580KDAYの音楽ディレクターであるが、このステーションはマコラ・レコードを初め地元のアンダーグランド・シーンで活躍する活きの良いヒップホップ・アクトをいち早く紹介し、「これは」と思う新人をパワープレイしまくった。このステーションは色々な意味で西海岸ヒップホップの普及に大いに貢献した。番組で当時を回想する同局のDJだったフリオ・Gは最近では西海岸ギャングスタ・ラップの草分けであるサイプレス・ヒルのショウにも参加して超クールなスクラッチ・プレイを披露したりもしている。
フリオ・Gと共に回想を語るジョン・シングルトンはアイス・キューブが主演して1991年に公開された映画『ボーイズン・ザ・フッド』の脚本を書き監督を務めた人物だが、彼が同曲から映画制作のインスピレーションを得た事は言うまでもなく、この曲のリリックは他のどの地域でもない当時のロスアンゼルス・サウスセントラル地区の若者の日常をリアルに描いたものだったと語っている。
boyz n the hood trailer
※アイス・キューブ主演、ジョン・シングルトン監督・脚本による映画『ボーイズン・ザ・フッド』(1991年)のトレイラー。
程なくしてN.W.A.は正式にグループとして活動する事になる。イージー・Eとアンドレ改めドクター・ドレーの二人がグループ名を"Niggaz Wit Attitudes"とする事をアイス・キューブに告げるとキューブは驚いたが、ドレーは笑いながら「そんな名前全体そのまま出してくれないだろ。だから取り敢えずN.W.A.に縮めるんだ。それから本当の意味を知った時に皆仰天するって訳さ。」と答えたと言う。
彼らがデビューした1987年当時はクラックを初めとする麻薬取引摘発に躍起になったLAPD(Los Angels Police Department=ロサンゼルス市警察)による黒人やヒスパニック系等マイノリティーへの弾圧や暴力がエスカレートし、彼らN.W.A.が発信するダークでニヒリスティックなメッセージが人々に共感を持って迎えられる社会的素地も十分に整っていた。
14分過ぎに登場するジェリー・ヘラー(当時46歳)はN.W.A.のマネージメントを担当するようになる人物でその昔、エルトン・ジョンやヴァン・モリソン、ジャーニー等のビッグネームなアーティストのコンサート・プロモーターとして活躍し、ずっと音楽業界のメインストリームを渡り歩いてきた。彼はマコラ・レコードのオフィスでイージーと出会ってN.W.A.の存在を知った時、直感的に「これは金になる。ひょっとすると莫大な利益をもたらすかも知れない。」と思い、即座にマネージメントを買って出てイージーと共にルースレス・レコードを設立した。こうした経緯を経てイージー、ドレー、キューブの主軸メンバーにDJ・イェラ、MC・レン、アラビアン・プリンスを加えて陣容を整えたN.W.A.はデビュー・アルバム『ストレイト・アウッタ・コンプトン』の音源はレコーディングされた。ヘラーはこのアルバムの配給先を求めてそれまでの音楽業界での人脈を駆使し、様々なレコード会社にオファーをかけたが、どのレコード会社もあからさまに銃や金をテーマとしてリリックのあちこちでビッチ等を連呼するこの作品には尻込みをし、結局、設立間もないプライオリティー・レコードと配給契約を結ぶ事になった。同社はブライアン・ターナーがCEO(最高経営責任者)を務める中堅レーベルで当時、カリフォルニア・レーズンズという覆面グループが歌うオールディーズ・ソウル・アルバムでささやかな成功を収めていた。カリフォルニア・レーズンズというのはソウル・シンガー、マーヴィン・ゲイの『アイ・ヒアード・イット・スルー・ザ・グレープヴァイン』をフィーチャーして人気を博していたTVコマーシャルから生まれた黒人ボーカル4人組のアニメーション・キャラクター・グループである。大手のレコード会社が躊躇してしまうような際どいテーマを扱った作品でもプライオリティー・レコードのような中堅レーベルは仮にそれが社会的に問題視されてメディア等で叩かれても、ちょっとした事でイメージダウンを恐れる大物アーティストを抱えている訳でもないので、思い切ってこの「危険な」作品の配給に踏み切ったようだ。1988年8月にデビュー・アルバム『ストレイト・アウッタ・コンプトン』がリリースされ、間髪を入れず9月にイージー・Eがソロ・デビュー・アルバム『イージー・ダズ・イット』をリリースすると各所で反響を巻き起こし、暴力や犯罪をを礼賛しているとの理由から彼らのプロモ・クリップはTV、ラジオの電波媒体では殆どオンエアされず、比較的表現の自由に関して寛容であったMTVからもオンエア拒否された程であった。
N.W.A.- Straight Outta Compton
※N.W.A.のデビュー・アルバム『ストレイト・アウッタ・コンプトン』のタイトル・トラック。メンバーがNFLのオークランド・レイダーズやNHLのLAキングスのキャップを被っている。
20分過ぎの映像ではコンプトン地区でLAPDがストリートギャング達のクラック製造基地であった「クラック・ハウス」と呼ばれるサウスセントラル地区の民家を装甲車を使って襲撃たりして徹底した麻薬掃討作戦を敢行した模様が紹介されるが、N.W.A.がデビュー・アルバムをリリースした時期にはこの地域の緊張もピークに達していた。この地域で蔓延していたクラックの問題は時の米国大統領、ロナルド・レーガン夫人のナンシー女史が推進した麻薬撲滅運動"Just Say No"キャンペーンの格好のターゲットともなった。南カリフォルニア大学教授のトッド・ボイドが「1960年代には黒人社会に於ける警察の取り締まりの対象はブラック・パンサー党等の極左勢力だったのだがこの時代にはそのターゲットはストリートギャングに変わっていた。」と興味深い証言をしている。
24分過ぎには1989年の8月にN.W.A.及び所属レーベル宛てにFBI(アメリカ連邦捜査局)から公式に送付された抗議文書がアップされるが、そこには抗議の主旨として彼らの作品が"encourages violence"~暴力を奨励しているからだと明記されている。アルバムには『ファック・ザ・ポリス』等、当局を刺激して余りある過激なリリックに彩られた楽曲が多数収録されており、FBIがこうした措置を取ったのも当然だったと言える。こうした喧騒の中、彼らを取り巻く幾多のスキャンダラスなエピソードは皮肉にも格好のプロモーション材料となり、アルバムはビルボード誌チャートで最高37位を獲得する等、商業的には大成功を収めた。またこの番組にも度々登場する、ヒップホップ専門誌の『バイブ』誌や『ローリング・ストーン』誌に寄稿している音楽ライターのチェオ・ホーダリ・コーカーは『バイブ』誌に掲載された彼らの紹介記事でこう書いている。「N.W.A.の支持者たちは、ヒップホップを芸術的自由という新たなレベルにまで高めたのは他ならぬ彼らだと口を揃え、ロックンロール又はビバップ以降出現したいかなるアメリカン・ポップ・ミュージックにも比肩するものは見当たらないと言う。しかしその一方で、批評家たちは彼らをパンドラの箱になぞらえる。つまり、彼らの作品とそれに付随した言動が、かつては単純にマッチョなアニメ・ヒーローを気取るだけだった世の中に本物の暴力と死をもたらした、というのである。彼らの説によれば、始まりはまず子供たちが自分自身を称して"ニガー"と呼ぶようになったことだった。そして、果てはネブラスカのトウモロコシ畑で育った白人が、聞いたこともない街の一角に忠誠を誓うギャングと化し、イージー・Eがエイズで死に、2・パック・シャクールやノトーリアス・Bも凶弾に倒れることとなった、というわけだ。」と。
当初は彼らのPVのオンエアを拒否していたMTVもシングル『エキスプレス・ユアセルフ』がリリースされる頃にはヒップホップ専門番組である『YO!MTV RAPS』で全放送時間を丸ごと使ってN.W.A.の特集を組むようになる。
ヒップホップ専門誌『ソース』誌の編集長ソーレン・ベイカーもN.W.A.のアルバムからカットされた2枚目のシングル『ギャングスタ・ギャングスタ』が導火線となって「ギャングスタ・ラップ」という新たなジャンルが開拓されたと語っている。幸か不幸かこの頃になると多くのメインストリート・メディアもこぞってN.W.A.の事を取り上げるようになり、彼らのベースであるロスアンゼルス郊外のコンプトンにもスポットが当たり、彼の地をあたかもギャングスタ・ラップと見る向きも出始めた。イージー・Eのソロ・アルバムもビルボード誌チャートで最高41位を記録、この頃の彼らは破竹の勢いを感じさせた。
EAZY E and NWA RARE FOOTAGE!!! Richie Mac - Director
※初期のN.W.A.のライヴ映像も含む貴重なフッテージ・コンピ。
しかしこの年半ば、グループの会計状況に不信感を抱いたアイス・キューブがその事をイージーとジェリー・ヘラーに問い質すと、取って付けたように二人は新たな契約書と人数分の契約金を7万5,000ドル用意してキューブをなだめようとしたが、彼はこれに納得せず交渉は決裂、キューブはグループを去る事になった。後々明らかになったところによると、この時点でN.W.A.がツアーで得た純収益は65万ドルで、その内ヘラーは何と15万ドルを自分の懐に収めていた。そしてキューブが受け取ったのは僅か2万3,000ドルだった。さらに『ストレイト・アウッタ・コンプトン』とイージーのソロ『イージーダズ・イット』の2枚のアルバムは1989年末までに併せて300万枚を売り上げており、両作品でキューブは収録曲の大部分を書いたにも拘わらず、実際に受け取った作家印税は3万2,000ドルに過ぎなかった。キューブはグループ脱退後にニューヨークに向かい、パブリック・エネミーのトラックメイカー・チームのボム・スクワッドと仕事を始め、翌年初ソロ・アルバム『アメリカズ・モスト・ウォンテッド』をリリース、このアルバムは彼の政治的主張が随所に散りばめられたポリティカル・ラップの傑作である。
Ice Cube- Amerikkka's Most Wanted [ HD ] O.G.M. Made Video ''Uncensored'' + Lyrics !
※アイス・キューブのソロ・デビュー・アルバム『アメリカズ・モスト・ウォンテッド』のタイトル・トラック。サンプリング・ソースにN.W.A.の他、ファンクの大御所スライ・ストーンやジェームス・ブラウンをふんだんに使ったトラックメイカー、ボム・スクワッド入魂の一作。
35分過ぎには全米の黒人社会を震撼させた警官によるロドニー・キング氏暴行事件が紹介される。この事件は1991年3月3日、当時強盗罪により収監され、仮釈放中にスピード違反でパトカーに停車を命じられたキング氏が再逮捕を恐れて逃走したがカーチェイスの末、捕えられたのだがその際、警官に激しい暴行を受けたというものだ。この光景を撮影したビデオがTVで放映され、多くの地域住民(主にマイノリティー層)の憤りを買い、その後警官暴行事件の裁判で警官に無罪判決が下った1991年4月29日、この判決に怒った黒人達が暴徒化し、有名なロス暴動へと発展する。
1990年8月にシングル『100マイルズ・アンド・ランニン』をリリースしたN.W.A.はこの作品に収録された『リアル・ニガズ』で1990年にソロ・デビューを飾ったアイス・キューブをベネディクト・アーノルド(米国独立戦争の米軍の将軍だが宗主国である英国に内通していた反逆者とされている)に揄えて皮肉った。この頃、N.W.A.とキューブの間には不穏な空気が漂い、N.W.A.があるTV番組に出演した際にキューブについて尋ねた番組司会者をDJ・イェラが暴行するという事件も起こり、様々なメディアを通じて両者はビーフ合戦を繰り広げた。
Ice Cube- No Vaseline (N.W.A Diss)
※アイス・キューブが1991年にリリースした古巣であるN.W.A.へのディス・ソング。
1991年5月にリリースされたアルバム『ニガズ4ライフ』は発売早々にビルボード誌チャートで1位を獲得し、キューブを失った後もN.W.A.は健在である事を誇示したが、そのリリックは以前にも増して暴力的な表現や女性蔑視の傾向が顕著になり、アル・ゴア夫人率いるペアレンツ・ミュージック・リソース・センター(PMRC)は青少年に悪影響を与えるとして反ギャングスタ・ラップのキャンペーンを展開し、公民権運動の女性活動家として著名なC・デロレス・タッカー女史("National Congress of Black Woman"の代表を務めていた)等人権活動家からも「黒人の人権を著しく貶める」としてギャングスタ・ラップそのものを強く非難した。
43分過ぎにはN.W.A.及びギャングスタ・ラップにとってあらゆる意味に於いて「運命の人」となったマリオン・シュグ・ナイトが紹介される。シュグ・ナイトは元フットボール選手で6フィート1インチ(185cm)330ポンド(150kg)の体格を誇る巨漢であり、ドクター・ドレーのボディーガードを務めた後にアーティスト・マネージメントをも手掛けるようになった人物である。
シュグ・ナイトはN.W.A.ポッセ(ファミリー)の一員であるMCのD.O.C.が大事故に巻き込まれ、一命は取り留めたものの声帯の大部分が使い物にならなくなる程の重症を負った際に入院先の病院を訪ね、そこでD.O.C.がマネージメントから十分なケアを受けておらず、CDで稼いだはずの印税も十分に受け取っていない事を聞かされ、その問題についてイージーに問い質す決心をした。この機に乗じてドレーも「俺の分も頼む」とシュグ・ナイトに全てを一任する事にした。そしてイージーがハリウッドのスタジオで実質的にN.W.A.のラスト作品となったアルバム『ニガズ4ライフ』の最終ミックス作業を手掛けている最中の1991年4月のある深夜、シュグ・ナイトは事前に何の予告もなくドレーの代理人としてやって来た。そしてイージーに半ば脅迫に近い形で「この譲渡契約書にサインしろ。」と一枚の紙を差し出した。そこにはドクター・ドレーやD.O.C.、アバヴ・ザ・ロウ、ミシェル・レ等それまでイージーが保有していたN.W.A.ポッセの面々の権利を全て放棄する、と書かれていた。イージーは最初、気丈にも「ファック・ユー」と吐き捨て、この申し出を拒否する姿勢を見せていたが、続けてシュグ・ナイトが「俺はジェリー・ヘラーを車の中に監禁している。」と告げ、さらにコンプトンのある住所が書かれた一枚の紙切れを出し、「お前のオフクロがどこに住んでるか、こっちにはちゃんと分かってるんだぜ。」と言うとシュグ・ナイトの手下の若者が数人、鉄パイプを振り回しながらイージーの前に姿を現した。これにはさすがにイージーも心を砕かれ、泣く泣くその契約書にサインした。この瞬間、希代のギャングスタ・ラップ・グループとしてその名を轟かせたN.W.A.は終焉を迎えた。
46分過ぎには先述したロドニー・キング氏暴行事件の映像も含めてロス暴動の模様がアップされる。そしてN.W.A.のメンバーのその後の行方が紹介される。
まずドクター・ドレーはシュグ・ナイトと共にデス・ロウ・レコードを設立、2パック・シャクールを擁して後々ギャングスタ・ラップをさらなる地平へと導いたが、2パックとノトーリアス・B.I.G.を挟んでショーン・パフィ・コムズ率いるバッドボーイ・エンターテンイメントとの間に勃発した東西戦争はあまりにも有名だ。
ドレーは1992年6月にスヌープ・ドッグをフィーチャーしてデス・ロウからリリースしたソロ・アルバム『ザ・クロニック』がビルボード誌チャートで最高3位を記録。またこの作品によってその後の彼の作風を決定付ける「Gファンク」サウンドを確立した。このアルバムに収録された『ドレー・デイ』ではイージーを揶揄したプロモクリップが話題になった。これに対しルースレス・レコードの運営を継続していたイージーは1993年にリリースしたシングル『リアル・マザファッキン・Gズ』ではそのお返しとばかりにドレーとスヌープを痛烈にディスった。
Dr. Dre featuring Snoop Dogg - Dre Day
※スヌープ・ドッグをフィーチャーしたドクター・ドレーの『ドレー・デイ』。イージー・Eとジェリー・ヘラーと思しき人物が登場する。
Eazy-E- Real Muthafuckin G's
※イージー・Eがドレーのディス・ソングを逆手に取ってやり返したディス・ソング。
イージーは1994年には「念仏ラップ」とも呼ばれる高速ラップ・チューンが売り物のオハイオ州クリーブランド出身のユニークなヒップホップ・グループ、ボーン・サグズン・ハーモニーを発掘したりと引き続きヒップホップ・シーンでは存在感を発揮していたが、生来の自堕落なライフスタイルが祟ってエイズを発症し、1995年3月26日に31歳の若さでこの世を去った。
Bone Thugs N Harmony - Crossroads
※イージー・Eが発掘したオハイオ州クリーブランド出身のボーン・サグズン・ハーモニー。流麗なライム、フローから見事なハーモニーを聴かせる。
N.W.A.に関して言うと個人的には彼らの存在を意識したのはグループ解散後の1992年くらいからだった。彼らがデビューした当時、僕の周辺ではN.W.A.はおろか西海岸ヒップホップ自体、殆どノーマーク状態だった。記憶が曖昧なのだが1989年頃にダブ・レゲエ・バンドのミュート・ビートをマネージメントしていたオーバーヒート・ミュージックの社長である石井氏を囲んだある飲み会の席で同社のスタッフから米国にN.W.A.というヒップホップ・グループがいて大変な話題になっていると聞いたのだが、この時は「米国のプロレスの団体からグループ名を拝借したのかな?」程度の話で終わってしまったように思う。ずっと以前にも書いたがこの頃はヒップホップ関係の情報と言えば当時僕が所属していたインディーズ系の原盤制作会社「ミュージック・ビジョンズ」によく出入りしていた福田哲也氏(DJイベント「ロンドン・ナイト」のDJ)と彼の取り巻きDJの方々から仕入れていたのだが彼らの口からもN.W.A.の話題は全く出ていなかった。当時はラップ~ヒップホップの本場はやはりニューヨークでとりわけランDMCやデフジャム・レーベルに所属するパブリック・エネミー、ビースティー・ボーイズ等が一番クールな存在で西海岸物はアイス-Tが筆頭格だったが何となく東海岸物に比べると軽視されがちだったような気がする。
N.W.A.が日本でクローズアップされたのはスヌープ・ドッグが参加したドクター・ドレーの『ザ・クロニック』がリリースされた後だと思う。ドレーが確立した「Gファンク」という斬新なサウンド・スタイルがかなり話題になり、ドレーがプロデュースしたスヌープがブレイクした1993年頃に日本でも漸く西海岸ラップというものが一般レベルで認知されたのではないか?
N.W.A.というと=ギャングスタ・ラップでまず暴力、金、女性蔑視等の何かネガティブなイメージしか持たれない嫌いもするが、勿論ポジティブな側面もある。例えば彼らは自分達のベース、ホームとの地域密着性をビビッドに打ち出した事だ。この番組でも明らかだが彼らが着用しているのは主にロスアンゼルス界隈をテリトリーとするメジャー・スポーツ・チームのマーチ・グッズが定番で、例えばMLBのドジャース、NHLのキングス、NBAのレイカーズのものでこれらのチームはいずれもロスアンゼルスをホーム・テリトリーにしている。。またNFLのレイダーズ(このチームはオークランドであるが)には愛着があるらしく、レイダーズ関係のマーチを着用する頻度が高い。特にレイダーズのキャップはN.W.A.のトレードマークともなっていてアルバムのカバーやプロモクリップではよく目に付く。言い方を変えればN.W.A.こうしたメジャー・スポーツ・チームの意匠=イメージを非常にスマートな形で自らのアーティスト・イメージにアダプトさせた。レイダーズのチーム・ロゴはチーム・カラーであるブラックとシルバーを基調に剣と盗賊をあしらったクールなデザインでレイダーズ=侵略者のイメージにピッタリで、これはN.W.A.のアーティスト・イメージとも見事にシンクロする。MLBのドジャースのチーム・カラーであるドジャー・ブルーも彼らのイメージを表象している。余談だがヒップホップと言うとスポーツではバスケットボール、NBAとの縁が深いのは周知の事であるがN.W.A.のドクター・ドレーは伝説的なバスケットボール選手のジュリアス・アービングの愛称「ドクター・ジェイ(Dr.J)」にあやかってその名を名乗るようになった。アービングはダンクシュートのパイオニアとして1970~1980年代に数々のスーパープレーでABA(現在は消滅)、NBAを沸かせた名プレイヤーだが、ドレーに限らずヒップホップのアーティストはその表現活動に於いてバスケットボール等のスポーツ・アスリートから多大なるインスピレーションを得ている。
Julius Erving Mix - The Doctor
※1970~1980年代に米国プロバスケットボール界でその名を馳せたジュリアス・"ドクター・ジェイ(Dr.J)"・アービングのスーパープレー・ミックス。ドクター・ドレーの名前のルーツでもある。
N.W.A.の話題に戻ると彼らが地域密着の姿勢を打ち出した事により、それまでニューヨークばかり注視していたヒップホップ・アクトやヒップホップ・フリークの意識も変わり始めた。N.W.A.出現後、ルイジアナ州ニューオーリンズではマスター・Pが始めたノー・リミット・レーベルが「ダーティー・サウス」を謳い文句に米国南部独特のテイストを盛り込んだスタイルでヒップホップ地図にその名を刻み込み、N.W.A.とほぼ同時期に活動を始めたジェイムス・T・スミス率いるラップ・ア・ロット・レコードはテキサス州ヒューストンを本拠としてゲットー・ボーイズ等を輩出し、他の地域でもローカル・カラーを全面に押し出したアーティストやレーベルが続々と出現した。N.W.A.は単にギャングスタラップという括りで片付ける事が出来ない、多面性を持ったグループであり、そのリリック、サウンドは元より活動形態や社会的なアプローチその他含めて本当に示唆に富む存在だった。彼らのレガシー~遺産を是非ともDIGして欲しい。
Everythang's corrupt
※大統領選挙イヤーの今年、タイムリーにドロップされたアイス・キューブの『エブリサングス・コラプト』のプロモクリップ。シリアスな映像がチョイスされたディレクションは圧倒的。アルバムは来年リリースとの事。