また暫く間が空いてしまったが前回からの続きで町田氏の新バンド「ふな」の東京でのお披露目ライヴのブッキングを引き受け、慌ただしく動き回った1982年の夏。この年、様々な出会いがあって僕の人生航路が大きく舵を切り始めた。今回の回想も余談だらけになるが(笑)、そんな出会いのうち、「ふな」及びこの後の町田氏の動向にも大きな影響を及ぼす事になる出来事を幾つか紹介する。
この年の5月末だったと思うが、大学の先輩でパンク~ニューウェイブ系音楽好きの豊崎さんという方から「立教にもパンクバンドとかもやってる変なサークルがあるから今からそこの部室に遊びに行ってみない?」という誘いを受けた。この豊崎さんとはこれまた奇遇な縁があって大学に入学して間もない頃、1981年の4月30日に原宿クロコダイルで行われた町田氏率いるINUのライヴの時に知り合ったのだった。そのライヴの日、偶然客席のテーブルに同席したのが知り合うきっかけとなったのだが、まさか入学して間もない頃、同じ大学にINUのファンがいるとは思いもよらなかった(当時INUは徳間ジャパンからデビューしていたとは言え、世間一般の認知度は皆無といっていい程低いものだった)。この豊崎さん、その後は学内で唯一パンク~ニューウェイブ系の音楽について親しく語り合える友人となったのであるが、彼は自分で特にバンドをやるでもなく、はたまたイベントのブッキング等やって裏方として動く事にも興味がないようで、どちらかと言えば都内のあちこちのクラブ(当時はディスコ)で気ままにクラビングを楽しんでいた。当時は六本木にクライマックス、少し後で原宿にピテカントロプス、新宿にツバキハウス等のニューウェイブ系ディスコがあり、週末になると店ではオールナイトでそれ系の音楽がかかり、それに合わせて奇抜なファッションでダンスを踊る若者達で賑っていた。豊崎さんもそうした感じの若者で、当時ありがちだったパンク~ニューウェイブ音楽を政治や社会とリンクさせてシリアスなアプローチで聴いたるするのを善しとせず、あくまで流行りのファッションアイテムを身につけるが如く気楽なスタンスでそうした音楽のライヴやイベントに顔を出していた。豊崎さんに関してもまた面白い人の縁があり、以前触れたイベントブッキング仲間でザ・スターリンの横浜市立大学のコンサートを企画したり、ザ・スターリン絡みのイベントや映画出演時のヘルプをしていた後藤君と豊崎さんは同郷で、出身高校も茨城県の土浦第一高校と言う学校の同窓生だった。この高校は当時の地方の高校としてはパンク~ニューウェイブ系の音楽好きな生徒が多かったらしく、このエリアには同じ県内の筑波大学の左翼学生がよく出入りしていた「アクアク」というライヴハウスがあり、そこではパンクバンドのリザードやザ・スターリンのライヴが頻繁に行われたりしていて、そこが拠点となって近郊在住の早熟?な高校生をそうした音楽文化に感化していたかららしい。因みに前回紹介したニューウェイブバンド、スティグマのボーカルで青山SHYのブッキング担当者だった浅野氏も筑波大学出身である。また真偽の程は定かではないが、この頃「筑波アクアク・ファシストモモヨ事件」という噂話があった。これは件の後藤君と豊崎さん双方から聞いた話だが、何でもその「アクアク」でリザードとザ・スターリンがイベントで鉢合わせする機会があり、その際にちょっとした口論からリザードのボーカル、モモヨ氏がザ・スターリンの遠藤道郎氏の胸倉を掴んでナイフをかざして威嚇したという。その際に遠藤氏が「モモヨはファシストだ!」と絶叫したという話だが、これは後藤、豊崎両者共に高校の後輩から聞いた話で、またその真偽をモモヨ氏や遠藤氏に確かめた訳でもないので真相は薮の中なのだが‥(どうも僕個人が実際に見聞した遠藤道郎氏のエピソードは皆、どこか情けない、弱々しい印象ばかりになってしまうが)。ただ、当時は日本のパンク~ニューウェイブ・シーンを牽引するバンドの筆頭格がリザードからザ・スターリンに移行しつつあった時期で(リザードはモモヨ氏がZELDAのプロデューサーを務める等、徐々に自身のバンド活動から後退していった)、恐らく両バンドが対峙した際には一触即発の微妙な空気が漂っていたとしても不思議ではない。また遠藤氏が言ったというモモヨ氏に対する「ファシスト」発言の真意は当時、モモヨ氏率いるリザードには「リザード・アーミー」と名乗る親衛隊?がいたのだが、恐らく彼らの存在を指していたのだと思う。「リザード・アーミー」のメンバーは皆、当時リザードのステージコスチュームだった黒いツナギ服を着て関東近郊のリザードのライヴに徒党を組んで押しかけていた。僕も当時、このリザード・アーミーの親衛隊長だった板垣さんという方と親しく話す機会があったのだが、彼はご丁寧にも暴走族のリーダー紛いに「リザード・アーミー・荒川支部(だったと思う)」なる名刺まで作っていた(笑)。ただ彼らはリザードのライヴで特に粗暴な振る舞いをする訳でもないのだが、何処で覚えたのか「必死即生」等と書かれた鉢巻きをして最前列でノリノリでポゴダンスをしていた。(遠藤氏の発言が事実だとすれば)こうした、当時の暴走族のようにチームとして統制されて動いていたリザードの取り巻きの動きをして遠藤氏は「ファシスト」と揶揄したのかも知れない。
リザードに関してもう一つ言及しておきたいのは当時、日本のバンドとしては珍しい例だが英国の過激なパンクバンド、ザ・ストラングラーズと親密な交流があり、同バンドの日本公園のフロントアクトを務めたり、リザードが1979年にキング・レコードからリリースした1stアルバムはザ・ストラングラーズのベーシスト、ジャン・ジャック・バーネルのプロデュースによりロンドンでレコーディングされた。このザ・ストラングラーズというバンドは実に特異な存在で妙に日本贔屓、特にJ・J・バーネルは三島由紀夫に傾倒していて、どちらかと言うと政治思想としては左翼的なスタンスを取るパンクバンドが多い中、彼はヨーロッパ人本来の矜持でもある騎士道精神を日本の武士道と相通じるものがあると発言したり、度々メディアのインタビューで男尊女卑的な物言いをして物議を醸していた。彼らには「フィンチュリー・ボーイズ」というストラングラーズのコンサート警備をしていた親衛隊がいたのだが、この「フィンチュリー・ボーイズ」を真似て熱烈なリザードファンの間で自然発生的に生まれたのが「リザード・アーミー」だった。余談だがこの頃は関東を拠点にその名を轟かせた暴走族「ブラックエンペラー」のメンバーが矢沢永吉の親衛隊として各地のコンサート会場に押しかけたりして話題を撒いたりして、ロックバンドとその親衛隊という構図は決して珍しいものでは無かったのだが、パンクバンドで本格的に親衛隊が付いたのはリザードが最初だったと思う。少し後になって同じパンクバンドのアナーキーにも「亜無亜危異」とプリントされたステッカーをバイクのマフラーや鞄に貼ったり、アナーキーのメンバーのステージコスチュームだった国鉄(現在のJR)職員の服装に身を包んだ親衛隊が付いたのをよく見かけたが‥。
著しく本題から脱線してしまったが話を戻すと(笑)先述の豊崎さんに連れられて行ったのが学内にあった「ウォーキン・ジャップ(Walkin'Jap)」という怪しげなサークルの部室だった。このサークル、実はサークルというより自由なサロンというかコミューンといった趣きの団体で部員の出入りも自由で、入部も退部もなく来たい時に来て誰彼となく好き勝手にだべったりするのが主か活動(?)だった。通常のサークルのような定例の部会や合宿等の縛りは一切無く、部員各々が興味の赴くままにバンドを組んだりイベントを企画したり、また豊崎さんのように特に何もしないで遊び仲間を募ってクラビングを楽しむ輩も多かった。このサークルの命名者であり主宰者(部長?)だったのが当時「造反医学」(後にイル・ボーンと改名)というバンドを率いて都内のライヴハウスを中心に活動していた中田潤氏だった。中田氏は今やフリーライターとして競馬やスポーツ、そして政治や文化等、様々な社会事象をジャーナリスティックな切り口でルポルタージュする「反骨の文士」として名を馳せ、著作も多い方だが、僕はこのサークルに入部(?)して中田氏と知り合った。この直後には現・飛鳥新社の赤田氏もここに出入りするようになり多彩な顔触れが揃ってサークル周辺は一挙に賑やかになる。豊崎さんからの情報が入部のきっかけだったが僕も入学してから一年以上経ってこのサークルの存在に気付いたのは、これ以前は出入りする人の数も少なくサークル自体、活動も停滞気味だったらしい。この年の春、新入生が大量に入部(しかも女子部員)してくると、まるで砂糖に群がるアリの如く多くの男子部員もこのサークルを訪問するようになった(笑)。元々このウォーキン・ジャップというサークルは「アメリカ文化研究会」という名義で大学の学生課に登録されており、1970年代は池袋に本拠地があった極左セクトの「中核派」の拠点でもあったらしい。それが学生運動の衰退と共に部員の数も減りこの頃にはサークルそのものを中田氏の判断で政治活動(左翼運動の勉強会や討論、議論が中心)から距離を置き、中田氏がバンド活動をしていた事もあってサークル名も改称して広く学内のパンク~ニューウェイブ系音楽ファンの交流の場として解放する事になったのだった。中田氏は大学入学以後、その種の機関紙に寄稿したり、穏健な形で政治活動には携わっていて中田氏のバンド、造反医学も多分に政治的色合いの強い歌詞を歌っていた。バンド名も1960年代に毛沢東治世下の中国で吹き荒れた「文化大革命」という学生運動があったのだが、それに参加した若者の有名なスローガンである「造反有理」に由来している(余談だが、僕がアメブロと並行してやっているTwitterで最近、中田氏の話題を書き込んだら何と造反医学やイル・ボーンのファンだと言う方の開設したアカウントからフォローされた)。造反医学のメンバーはこの時期、中田氏がボーカルとベース担当、石黒浩孝さんがギター、箕輪政博氏(バンドクレジットでは攻機、後に扇太郎と名乗る)がドラムスという編成で、この年初頭に『青空』というタイトルで美麗な箱パッケージの自主制作カセットをリリースしていた。造反医学がこのラインナップに固まる迄には何人かのメンバーチェンジがあったようだが、中田氏と石黒さんは立教の同級生で僕より一学年上級の先輩に当たり、箕輪氏は日本獣医科大の学生で中田氏と共通の知り合いを通じてこのサークルに出入りするようになり、造反医学のドラムの座に収まった。造反医学のライヴを初めて見たのはこの年の10月に新宿ロフトで行われた造反医学主催のイベント「植民地音楽ギグ」だったと思う。この日は当時、造反医学のマネージメントを担当していたK君という割と行動力はあるがおっちょこちょい(死語か)な所のある人物が主催したものだったのだが、中田氏初め造反医学、転じてイル・ボーンとなって以後もバンドはこのK君には随分と振り回される事になる(笑)。K君も「ウォーキン・ジャップ」には頻繁に出入りしていたが、彼は明治大学の学生だったがパンク~ニューウェイブ系の音楽好きで自分でもバンドをやっていた。ミーハーな所もあって何故か青山学院大学の「プレイボーヤ」というテニスサークルにも所属していた。このK君、何事に付け自由奔放というか、例えば恋愛?関係でも当時彼女だった女性が行きつけのディスコやクラブで知り合った怪しげなドイツ人男性と肉体関係を持ってもそれを諌めたりせず、逆にその事を周囲に自慢げに吹聴したり、(時効だろうから書いちゃうが)タレントでミュージシャンの近田春夫氏の彼女?だったというエルちゃんというニューハーフさん(当時「黒蝶の湖」というショーパブでダンサーをしていた)と(何を血迷ったのか)真剣恋愛したり(笑)と毎度お騒がせなネタを提供してくれる美味しいキャラクターだった。今にして思うと中田氏は懐が深いというか、このK君がバンドのマネージメントに関して何度となくポカをやったり私生活で色々と問題を起こして(笑)尻拭いをする羽目になっても「あいつも自分なりに頑張っているんだから‥」とK君自身に何らかやる気のある限り、決して見捨てるような事はしなかった。造反医学のライヴでの印象であるが、先述のドイツ人男性(K君の彼女の彼氏と呼ばれていた)曰く「ドラッグ・ミュージック」との事だったが、それは当たらずとも遠からずな表現だった。パンクというフィルターを通した60年代サイケデリックロックといった要素もあり、またレパートリーの殆どがライヴでも歌詞がクリアに聞き取れる、中田氏の歌が全面に押し出された所謂「歌モノ」で、それを箕輪氏のレゲエやアフロリズムを取り入れたポリフォニックな変拍子リズムと石黒さんの叙情味豊かなサイケデリック・ギターが包み込むという、僕にとってはそれまで接した事のない独自の音世界が展開されてた。後に町田氏に初めて造反医学の音源を聴かせた所、滅多に他人のバンドを評価しなかった彼が「カン(ドイツの前衛ロックグループ)やん、これ。ギターなんかもろに。おもろいわ。」と真剣に聴き入っていたのを鮮明に覚えている(後にドラムの箕輪氏は町田氏のバンドで長らく活動する事にもなる)。当時の造反医学はやはり中田氏がメインコンポーザーで、サウンド面では良くも悪くも中田氏のイメージした音像を具現化するべく石黒、箕輪両氏が自分の嗜好を最大限に発揮してサポートしていた、という印象がある。僕の記憶では中田氏は英国のポストパンク・バンドのザ・ドゥルッティ・コラムやグラクソ・ベイビーズ、ジョイ・ディビジョン等を好んで聴いていてサウンド的にはそれらのバンドの影響も多々見受けられる。ただ歌詞に関しては中田氏の思想信条や世界観というものが既に完成されていて、それらが忠実に反映された唯一無比の詩世界があり、国内外を問わず先人のロックバンドやアーティストの誰の影響も受けていなかった。バンド活動はさておいてサークルの長としての中田さん(~氏と書くのは何となくこそばゆい)を顧みると、先述したように「懐が深い」に尽きる。かの「ウォーキン・ジャップ」はやはり一癖も二癖もある個性的な輩の巣窟であったのだが、そんな連中を何やかやと中田さんがしっかり束ねていたからこそこのサークルも存続していたのだろう(僕の世代が卒業すると間もなくサークルは活動停止となり、自然消滅した)。後輩のバンド運営の悩み事から恋愛相談まで、それこそ時間があれば朝まで居酒屋で飲み会がてら語り尽くす事も珍しくなく本当に面倒見の良い先輩で、人間味溢れる一面も持っていた。今でも忘れられないのはこの年の暮れに僕の友人のアパートの一室でクリスマスパーティーが開催された時の事である。世間一般、この頃からクリスマスが独身男女にとって年間の一大イベントになってきたのではないかと思うが‥。クリスマス(特にイヴ)に恋人もなく一人で過ごすような輩は人間に非ず‥そんな風潮が始まったのもこの時代ではなかったか?当然「ウォーキン・ジャップ」でも一人寂しいクリスマスを迎える予定の部員が沢山居た(僕もその一人だった)のだが、その打開策として一部の部員が発案したのが「ウォーキン・ジャップ」でクリスマスイヴにパーティーを開催しようというものだった。恋人の有無に拘わらず、この年の12月24日にクリスマスパーティーを開催し、サークルを挙げて部員全員でその日は盛り上がろうと。確か後輩の女子部員の発言だったと記憶しているが、23日のイヴイヴ(イヴの前日)を「それぞれのクリスマス」として(パートナーがいる部員は)恋人と二人だけで過ごし、一人で過ごすのが一番辛いイヴの24日は「みんなのクリスマス」という事で部員総出で盛大にパーティーを開いたのだ。後輩立場が企画した、こんなアホなパーティーにも中田さんは豆に顔を出して皆と一緒になってバカ騒ぎに付き合ってくれた。そこでこのパーティーの翌朝、僕がトイレに入ってみると誰かが大便が流さずにそのまま放置していた。パーティー後は参加者は三々五々、散り散りに帰ってしまったのだが、どうもその大便流し忘れは中田さんがやったものだった。この件について後日、中田さんに質すと両手を擦り合わせて「ゴメン!俺、最近集中力がどうも‥。悪かった。○○君(パーティー会場として自分の部屋を提供した僕の友人)には謝っておいてくれ。」と本当に申し訳なさそうに謝っていた(笑)。
とまあ、町田氏の「ふな」のライヴ本番の話はどうなってしまったのか?という流れになっているが(笑)、この造反医学(イル・ボーン)の存在についてはネットメディアでも中々語られる機会がない。しかし、このバンドは町田氏のバンドメンバーとしても活躍したドラマーの箕輪氏の多方面に渡る活動のみならず、ギタリストの石黒さんはザ・スターリンのヘルプ・ギタリストとして地方ツアーに参加する等、この頃のアンダーグラウンド・シーンで確たる存在感を放っていた。
中田さんは先述した通り、現在はフリーライターとして多分野に渡る執筆活動で活躍中。『新庄君は、アホじゃない』『男、清原どこへ行く-不良番長の野球バカ一代』『愚直列伝-地上最強の生き方』等多数の著書をものしている。最近では生来の反骨の虫が騒ぎ出したのか原発関係の啓発本に舌鋒鋭くメディア批判文を寄稿している。驚いたのは中田さんのブログのスポーツカテゴリーに目を通していると、去る6月に女子プロレスラーの神取忍選手が音頭を取り、先の震災復興を願って開催された被災地でのチャリティープロレス大会の記事が目に留まった。実は僕がこのブログを書くきっかけとなったのは、このチャリティー大会にも参加した井上貴子選手のブログを見ていて彼女達女子プロレスラーの震災復興に対する真摯な取り組み方や問題意識の持ち方に感銘を受け、井上選手のブログ記事閲覧の為にアメンバー申請をした事だった。中田さんは学生時代から生粋のプロレスファンで飲み会等で僕とよくプロレス談義をしたものだが中田さんの「復興はプロレスから」という主張は僕と全く同じ視座に立って事を捉えていたようで何だか妙に嬉しくなった。という訳で本題から脱線しまくりのままTo be continued...LOL

参考リンク
LIZARD リザード;:Kingdom (1979)
※ザ・ストラングラーズのJ・J・バーネルのプロデュースにより制作されたリザードの1stアルバムから『王国』。スタジオ音源に被せられた編集映像から当時のリザードのアグレッシブなライヴパフォーマンスを垣間見る事ができる。
Lizard:ROCK'N ROLL WAR 宣戦布告
※リザードの2ndアルバムから代表曲『宣戦布告』。バンドの親衛隊「リザード・アーミー」に捧げられたもの。「黒いツナギを/アメ横の/いつもの店で/くすねちまおう/そうすりゃ君も/黒い兵士/鋼鉄の街に/愛の嵐」。
THE PUNK ROCK MOVIE/ROCKERS(完全版) 映画予告編
※後半より英国のザ・ストラングラーズもフィーチャーし、リザード等黎明期の日本のパンク~ニューウェイブバンドのドキュメンタリー映画『ロッカーズ』の予告編。
Stranglers:DEATH AND NIGHT AND BLOOD
※ザ・ストラングラーズの代表曲で三島由紀夫に捧げられた『デス・アンド・ナイト・アンド・ブラッド』。上述の映画『ロッカーズ』の映像から。
Stranglers:Hanging Around
※ザ・ストラングラーズの代表曲『ハンギング・アラウンド』。
Stranglers:Nice & Sleazy (live 78)
※ザ・ストラングラーズのライヴ映像から代表曲『ナイスン・スリージィー』。これは彼らの親衛隊「フィンチュリー・ボーイズ」周辺の女性をヌードダンサーに仕立ててステージに登場させた為、「女性蔑視だ」と一部メディアで叩かれた問題の映像。
JJ Burnel:Freddie Laker
※ザ・ストラングラーズのベーシストでリザードの1stアルバムのプロデューサーでもあったJ・J・バーネルのソロ・アルバム『ユーロマン・カメス』から。
ILL BONE:ベイルート(Live)
※造反医学からイル・ボーンに改名後にライヴ・レコーディングされた代表曲『ベイルート』。
箕輪扇太郎そして/あるいは箕輪攻機(Episode1)
箕輪扇太郎そして/あるいは箕輪攻機(Episode2)
箕輪扇太郎そして/あるいは箕輪攻機(Episode3)
箕輪扇太郎そして/あるいは箕輪攻機(Episode4)
※造反医学からキャリアをスタートさせ、後に町田氏のバンドを初め凄腕変拍子ドラマーとして名を馳せた箕輪氏のプロフィール振り返って語った映像。因みに「扇太郎」というステージネームは町田氏の命名。他にも町田氏は1980~90年代にかけて活動していたオルタナティブ・バンド『痛郎』の命名者でもある。
Can:Mushroom
※造反医学の音源を聴いた町田氏が開口一番、「CANのようだ。」と評したのだが、そのドイツの前衛ロックグループ。
Durutti Column:SKETCH FOR DAWN (1981) - Factory Records
※造反医学‥というより中田氏が大きな影響を受けたポストパンク・バンドの一つである英国のザ・ドゥルッティ・コラム。「ドゥルッティ・コラム」は1930年代に起きたスペイン内戦時に共和国側の義勇軍として戦った伝説的な部隊の名に由来する。
Glaxo Babies:Because of You
※中田氏がフェイバリット・バンドに挙げていた英国のポストパンク・バンド、グラクソ・ベイビーズ。かなり捻った楽曲構造を持っていた。
Joy Division:New Dawn Fades ('Control' version)
※英国の代表的ポストパンク・バンド、ジョイ・ディビジョン。中田氏は一度あるライヴでジョイ・ディビジョンの有名なオープニングMC「Joy Division Rise.」を真似て「Ill Bone Rise.」のMCでライヴをスタートした事もある(笑)。
ILL BONE イルボーン:America (1986)
※イル・ボーンの代表曲「アメリカ」。『フールズ・メイト』が設立したインディーズ・レーベルのトランス・レコードからリリースされた1stアルバムに収録。
中田潤が無料予想「競馬で「喰えるダメ人間」になろう」
※中田氏のブログのスポーツ・カテゴリー。敗戦から立ち直った日本の復興期の象徴だった力道山と現在の神取選手の活動をオーバーラップさせ、「復興はプロレス」、また神取選手と北斗晶選手の名勝負を引き合いに出して、これぞ「復興期の精神」と最大級の賛辞を送っている。
別冊宝島 1796 原発の深い闇 ノンフィクション(中田氏寄稿) 宝島チャンネル・商品レビュー
※中田氏が本来の「反骨の文士」振りを存分に発揮して原発事故に於ける東電の対応、そしてメディア批判を繰り広げた寄稿文が掲載された宝島のムック本。