自分の過去と向き合う作業というのは、得てして思い出、記憶を何でも美化してしまう傾向がある。これまで書いてきた事柄にしても記憶自体が曖昧なものや、そのディティールがよく思い出せないもの、また敢えて記憶をに封印しておきたい悪い思い出まで‥色々ある。しかし過去の記憶というものは何かをきっかけにしてでも自ら能動的に思い出すという努力をしないとどんどん忘れていく‥ものらしい。
そこで今回は良い思い出ばかりでない、それこそ苦も楽もあり、文字通り一時期は苦楽を共にしたあるパンクバンドの事について書いてみることにする。
そのバンドの名はザ・スタークラブ。今も現役で活動中である。このバンドとの出会いは大学入学以前の1980年の秋に遡る。当時、僕は受験浪人中でその年の9月から半年間、愛知県名古屋市に一人暮らしをして市内にある大手大学受験予備校の代々木ゼミナールに通っていた。そこでまた市内に居住する友人の先輩がミラージュというハードロックバンドをやっていて市内・大須にあるエレクトリック・レディ・ランド(通称ELL~エル)というライヴハウスにほぼ月一回レギュラーで出演していた。その友人の先輩-星野さんという-から名古屋にも幾つかパンクバンドがあると聞かされ、一度行ってみることにした。この当時、ライヴハウスというものは大概が汚い雑居ビルの地下にあり、一般的に何か薄暗くて怪しげなイメージがあって初めての店に足を踏み入れるのには中々勇気がいるものだった。僕はそれまで大阪や京都のライヴハウスには何度か足を運んだ事があったのである程度は免疫があったのだが、名古屋のエルはその外観はかなり怪しかった印象がある(現在は場所も移転し、姉妹店を3店構える老舗ライヴハウスである)。店の内情を件の星野さんから色々と聞いていたのだが、初めてエルに入店して地階へと続く階段を下りる時はやはり緊張したものだ。最初に行ったのはHIKO'Sと原爆オナニーズという、いずれもこれ以前にスタークラブに在籍していたメンバーが新たに結成したバンドのライヴだった。そこそこ楽しめるライヴではあったが、本題とは関係ないのでここでは割愛する。肝心のスタークラブのライヴを観に行ったのは確か10月の末だったと思う。星野さんから聞いた話では「(スタークラブは)あまりお客さん入ってないよ。しょっちゅうメンバー変わるから固定客が居着かないみたいだ。」という話で、エルのオーナーの平野氏(通称・シゲさん)からもスタークラブというバンドは集客にはあまり期待されていないとの事だった。が、この年の正にこの時期にスタークラブは『Tool Gate Ahead』という自主制作レコード(インディーズという言葉・言い回しはまだ無かった)をライヴハウスのエルが立ち上げたELLレーベルからリリースした。このレコード、勿論アナログ盤で25cmLPという特殊なフォーマットで、後から聞いた話では先にシヌELLレーベルからリリースしたPVLN(ピウ゛ィレヌ)というバンドのメンバーで、僕がELL初入店時に観たHIKO'Sのリーダー、ヒコ氏の自宅を改造したスタジオとエルの店内でほぼ一発録りでレコーディングされ、レコードのプレス代もエルではなくバンド側が負担したという事だった。つまり、エルもスタークラブも利益度等は外視して「レコードを出したい」という強い衝動があって協力体制を敷いてリリースにこぎ付けたそうだ。この時代にインディーズレーベル、もとい自主制作レーベルを設立した輩はほとんどがこの表現「衝動」に衝き動かされて行動を起こしたものだ。レコードという記録媒体‥音作りだけでなくそのパッケージからアナログ盤の仕様、それこそラベル(盤中心の、所謂ヘソの部分)のデザインまで作り込んで制作し、ファンの手に届けたいというアーティストサイドの表現衝動。これがどんなジャンルであれ自主制作でレコードをリリースするに至る共通のモチベーションであり、俗に言う「インディーズ・レーベル」が儲かる、ビジネスになると言う時代が到来するのはこの数年の時を経なければならなかった。
さて、初めて観たスタークラブのライヴの印象だが‥これは例えばこの時期、京都や大阪で体験した町田氏率いるINU等に比べると、かなり客を突き放した感じの、ちょっと怖い印象のあるライヴパフォーマンスだった。この時期のメンバーはボーカルがヒカゲ(日影とも表記)、ギターが狂児、ベースがエディ(後に原爆オナニーズに加入、現在も現役で活動中)、ドラムにNo-Fun-Pigという布陣だった。この時期はボーカルのヒカゲ氏がステージでピアニカ(小中学生が音楽の授業等で吹く楽器です)を使った、その名も『ピアニカ』という、かなりシュールな楽曲がレパートリーにあって現在のファンには想像し難いかも知れないが、かなりアヴァンギャルドなアプローチもしていた。こうした傾向はこの時代のパンク~ニューウェイブ系バンドに共通する要素で、当時世界中でこの手のバンドの羅針盤的存在だった元セックス・ピストルズのボーカリスト、ルジョン・ライドン率いるPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)の打ち出す、脱ロック的な音楽的志向性の影響があったと思われる。はっきり覚えているのはライヴ中、終始不機嫌そうに客席を睨みつけていたヒカゲ氏がセットメニューが終わるや最後、客席にピアニカを投げつけ、まばらな拍手の中ステージを立ち去っていった事だ。勿論MCも無くアンコールも無し。これはこれでこの時代特有のパンクバンド・アティテュードだったのだが、後のスタークラブのステージ・マナーを考えると興味深い。バンドやその音楽性、そしてパフォーマンスまでも如何にその「時代の空気」というものに影響されるのか、という意味において。客席も含め殺伐とした雰囲気とこの時感じた何とも言えぬ寂寥感が今でも妙に印象に残っている。唯一刮目させられたのは、大音量で響き渡ったエディの並外れたグルーヴ感溢れるベースプレイで、先のPILのベーシスト、ジャー・ウォブルのそれを想起させる硬質かつ「うねる」ような音圧・音質に圧倒された。帰り際に目にしたのだが、店の前の道路に停車していたメンバーの車輌のボンネットに[STAR CLUB]とペイントされていた。この時は約30人程度の客入りで、後から聞いた話ではこの時のライヴはレコードをリリースする直前とは言え何度目かのメンバーチェンジの直後で、リハーサルも不十分で今後の音楽的方向性を模索すべく、様々な試行錯誤を繰り返していた時期だったとの事。さて、スタークラブのライヴよりも謎めいて恐ろしげだったのは(笑)、エルの店員のお姉さん方だった。言葉で表現し辛いが、誰しも当時の一般女性とは明らかに異なった怪しいオーラを放っていた。金髪で暴走族のレディースでもやっていそうな女性(「ヤンキー姉ちゃん」と呼んでいた)やさっちゃんという、遅れてきたヒッピーのようなカーリーヘアの女性等々、先の星野さんから「見た目は凄いけどみんな良い子だよ」と聞かされてはいたが、軽口を叩けるような雰囲気ではなかった。またライヴのチャージがスタークラブて300円、他のアマチュアバンドで150円と、地元のバンドは低額だった。コーラが200円だったからたった500円でライヴが観られる事になる。これは当時、東京や大阪等、他地域のライヴハウスが軒並み800円から1000円以上のチャージ設定だった事を考えると如何にエルが良心的な店だったか良く分かる。聞けばオーナーの平野氏が心底音楽ファンで、エルというライヴハウスの運営を通じて名古屋にロック音楽文化を根付かせたいという、これまた「衝動」に駆られてライヴハウスを始めたとの事。当然、ライヴのチャージは極力低額に抑えて一人でも多くの若者に足を運んで貰おうという思いから超低額なチャージ設定がなされていたという。また平野氏は自分でも「なぞなぞ商会」という、フランク・ザッパとジミヘンのカバー・バンドを率いて活動をして自主制作カセットをリリースしていた。先の浮世離れした雰囲気のお姉さん方もそのほとんどがエルに出演していたバンドの身内で、自らの賃金も要求せず、いわばボランティアで店を手伝っていたらしい。僕自身としては約半年間の名古屋滞在であったのだがこの間、予備校には殆ど行かず、自室で学習して週末にエルや京都・大阪のライヴハウスに出かけてライヴを観て溜まったストレスを解消する、というような生活を送っていたのだった。
そしてその後、上京して町田氏率いるINUの解散ライヴを観て大学入学後の自堕落な生活を自省して「何かやらなければ」と日々自問自答していた頃の事。大学の夏休みが始まる直前に以前この「自分史」に書いた赤坂君、伊沢君等と出会い、ライヴイベントの企画集団に参加した直後に、彼らから高橋伸一氏という、当時パンク~ニューウェイブ系の学生イベントの元締め(笑)のような人物を紹介された。この方は法政大や横浜国大、横浜市大、神奈川大等こうしたジャンルの学内イベントやコンサートに幅広く携わり、非常に活動的で当時刊行されていた月刊情報誌『シティロード』のライヴスケジュール欄のライヴハウス・コーナーの編集担当のような事もしていた。余談だが高橋氏は翌年ザ・スターリンのマネージャーを務める事になる。この高橋氏と色々話している内に僕が名古屋で受験浪人中にスタークラブをよく観ていたという話をすると、名古屋を拠点に活動していたスタークラブが東京で動けるスタッフを探しているから、先の赤坂君と二人でやってみないか?と持ち掛けられた。僕は一も二も無くこの話に飛び付いた。その理由はまず本部の名古屋からの指示があり、その指示通りに動けば良いという気楽な立場で携わる事がてきる事と、スタークラブ自体、東京でそんなに頻繁にライヴをやっていなかったからそれに忙殺される事もないだろうという事等々だが、やはり色々経験を積みたかったというのが最大の理由だ。この依頼があったのは丁度、スタークラブは2枚目の自主制作レコード『CLUB TAKE ONE』をリリースする直前で8月の1日に新宿ロフトで、2日に目黒・鹿鳴館でレコード発売記念ライヴが開催される事になっていた。スタークラブ側の窓口はボーカルのヒカゲ氏の実兄でその風貌がどことなくローリング・ストーンズのミック・ジャガーに似ている事から「ミック」の愛称がある松尾敏正氏だった。
ここから約3年間、1984年の秋口まで僕は『CLUB THE STAR TOKYO』を名乗り、翌年春には自宅のアパートの電話を音楽雑誌に掲載し、レコード・ジャケットにクレジットしてレコードの流通、ライヴの情宣活動を手伝っていく事になった。ただ、後に知り合い、公私共にディープな付き合いをするようになったザ・フールズやじゃがたら、町田氏等とは違って、どちらかと言えば事務的な業務を遂行するという、割とあっさりした関係性だった。この年の夏は件のセカンドシングル『CLUB TAKE ONE』を都内のレコード店に委託で納品し、店の慣例に沿って数ヶ月〆で精算・回収する段取りを付けたり、レコードを携えてレビューを掲載して貰えそうな雑誌を訪問したり何事も経験と、それこそ挙手空拳で必死に取り組んだ。ただ、この時も人の縁とは異なもので、僕の前任者(スタークラブの一枚目のレコードの東京での納品や宣伝を担当)が、忽名(くつな)さんという、偶然にも僕が入学した大学の文学部に籍を置く、一年上級の女性で仕事の引き継ぎで初めて顔を合わせた時にはお互いビックリした。彼女は何でもマネージャーの松尾氏の知り合いだった事から手伝っていたのだがそこは女性の性(さが)、その頃はグランギニョルというアンダーグラウンドな演劇ユニットに夢中で、その団体のスタッフをやる事になってスタークラブのヘルプはもうできないという次第だった。しかしこの夏、レコードを数十枚バッグに入れて電車で都内を移動して委託販売の営業的な事をして納品書を切って店から店を駆けずり回るというのはかなりの重労働だったが、非常に貴重な経験が出来たと思っている。今思えば怖いもの知らず故にやれたのだが、ほぼ飛び込みで色んな音楽雑誌や情報誌の編集部にレコードを持って出入りしたのも媒体関係に人脈を作る良い機会だった。
バンドとしてのスタークラブについては、今振り返ってみると他に携わったフールズ等と比べると短期間で驚くべき変貌を遂げた-言い換えればイメージチェンジに成功したバンドという印象がある。僕が携わった当初は音楽的にもストレートなパンクというより、この時代で言うオルタナティヴなニューウェイブ系のバンドに近く、リリックも暗く冷めた、聴き手を突き放したネガティブなもので僕的にはかなりツボだったが一般的には浸透し難い類いのものだったと思う。翌年にリリースした『YOUNG ASSASIN』、『SHUT UP!』と作品を重ねるにつれて徐々にオープンマインドな、ある種開かれた音楽性を身に付け、リリックもポジティブなものに変わっていった。82~83年にかけてはライヴの度に目に見えて客の数も増え、またその客層も次第に変わっていった。この頃、あまり良い表現ではないが僕の周辺では「ヤンパン」なる言葉があり、その意は「ヤンキー+パンクス」の略語でつまりヤンキーとパンクスという両方のテイストを併せ持った若者が、当時渋谷や表参道界隈にちらほら出没し始めたのだ。そしてまさにその「ヤンパン」の連中がこの頃、スタークラブのライヴにも足を運ぶようになったのである。竹の子族やローラー族といった一団が毎週日曜日の昼下がりに表参道の歩行者天国でラジカセで大音量の音楽を流し、それに合わせて踊り狂っていた時代である。そうした集団を卒業(?)した輩がパンクに目覚めてスタークラブやザ・モッズ等、ヤンパン好みのバンドのライヴ流れてきたのである。アーティストというものは多かれ少なかれ自分のファンの影響を受ける-言い換えれば無意識の内にファンの期待や願望を自分の表現にフィードバックさせていくものだ。「ヤンパン」のファンからの支持を得てからのスタークラブはこうしたケースの好例だと思う。そしてベースのエディがプライベートな理由で脱退するという、バンドが岐路に立った丁度良いタイミングで新メンバーに迎えられたギタリストのLOUこと犬飼氏(ギターの狂児はベースにコンバートされる)の持っていた資
質が「ヤンパン」受けするような新たなバンドカラー形成に良い作用をもたらしたのではないかと思う。僕が見聞する限り、当時の犬飼氏はまるで一昔前の青春ドラマに出てきそうな実直な熱血漢で、何かトラブルがあった時にも真っ先に出ていき、真正面から受けて立つ感じだった。喧嘩沙汰になっても、感情にはやらず、まず自分の主張を言葉にしてしっかり相手に伝える、そんな印象がある。とにかく音楽好きで確か器材を買う為に地元の缶詰工場で夜間に12時間働いていた事もあった程だ。また無類のスピード狂で(但し安全運転だったが)高速道路大好き(笑)、ツアーの時も自ら進んでバンを運転し、僕も同乗した事があったがスタッフにも気を遣うタイプだった。こんな犬飼氏の加入でバンド自体のキャラクターが「陰」から「陽」に転じ、リーダーのヒカゲ氏にも大きな影響を与え、それは曲調から詩作、ステージパフォーマンスにも顕著に現れた。犬飼氏の加入がバンドのカラーも変え、ファン層をも一新してしまう、そしてこの2年後には待望のメジャーデビューを果たす事になるなど、バンドの運命をも左右してしまう‥この時期のスタークラブの一連の出来事を振り返ってみて、一個人の持つパワーが時としてこれ程大きな作用をもたらすものかと感じ入った次第だ。
正直なところ、一時期スタークラブに対して「まだやってるの?」と懐疑的になっていた事もあった。が、今回、改めて彼らの音源を聴き返してみて色々な事を思い出すにつけ、世間の評価はともかく何事もやり続ける事の尊さ、気高さを再考させられた。スタークラブの映像・音源でYOUTUBEに上がっているものは限られているので僕が携わっていた時期のものは数少ないのだが、以下に参考リンクを貼っておきます。昨今、「格差社会」だの「自殺者天国」だのと暗い世相を反映する議論がメディアでかまびすしいが、27年前のスタークラブの楽曲でそんな現在の若者に宛てたメッセージかと見紛うようなものがある。「THE LAST RIGHT(最終権利)」「POWER TO THE PUNKS」等の楽曲である。リリックもリンクを貼っておいたので参照されたし。
さて、スタークラブ関係の回想はまだまだ続きます。

THE STAR CLUB:Pass By You
※ギタリスト・LOU加入以前の作品『Pass By You』。ネガティブな歌詞のテイスト等、明らかにLOU加入以降とは異なっている。ライヴアルバム『HOT & COOL』(1983)より。ちなみにライヴレコーディング時のギターはLOU。
THE STAR CLUB:The Unknown Soldier
※インディーズ時代最後の作品『FRONT LINE』より。とてもパンクバンドとは思えない、後半部で聴けるLOUの弾く美しいアルペジオのギターソロは圧巻。
THE STAR CLUB:THE LAST LIGHT(最終権利)
※一歩間違えば自殺幇助(?)とも誤解されかねない際どいリリック。が、よく読めばヒカゲ氏の真意が分かるはず。リスナーを敢えて突き放したスタークラブならではのユース・アンセム(青春賛歌)。エンディング直前に炸裂するギターブレイクでのLOUの鬼チョーキングはジョニー・サンダースも顔色を失う程(笑)。音全体のミックスバランスも最高。
THE LAST RIGHT(最終権利) Lyrics
THE STAR CLUB:POWER TO THE PUNKS
※この時期の稀少なPV。リリックのポジティブさはやはりLOUの実人生体験がヒカゲ氏の作詞に反映されたものと見る。映像でヒカゲ氏の革ジャンにペイントされた"The World Is Yours"はアル・パチーノ主演映画『スカーフェイス』のサブテーマから。
POWER TO THE PUNKS Lyrics