しなやかな獣たち

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最後のとき

 

 ある母親が娘の手を引いて、学校へと向かう途中です。母親の頭の中は、買い物、掃除、料理など、これからしなければならないことでいっぱい。 近頃、家事にはうんざりしています。娘が大きくなって一人で登校できるようになる日が待ち遠しくてたまりません。この母親にはさらに、幼い息子がいます。最近、この子の夜泣きはヒドく、夜は永遠に感じるほど長く感じられます。ほんの数時間でもいいから休みたい、そう切実に願っています。

しかし、この母親が書いた手紙には驚くべきことが綴られていました。

 

「赤ちゃんを抱いたその瞬間から、人はもうそれまでの自分とは違う人間になる。

それまでの自分に戻りたいと切望しているかもしれない。

自由と時間があったころに。

特に心配することもなかったころに。

こんな疲労を知る由もなかったころに。

食べさせるのとげっぷを出してあげることでいっぱいいっぱいの毎日は、次から次へと、まったく同じ日のように過ぎ去って行く。

オムツを変える、赤ちゃんが泣く。

不満と喧嘩。

お昼寝したか、していないか。

終わりのない循環のように思える。

でも忘れないで...

どんなことにも「最後」があるということを。

子どもにご飯を食べさせる最後の日。

疲れた子どもたちがあなたの膝枕で眠る最後の日。

眠っている子どもたちを抱きしめることのできる最後の時も、必ず来る。

ある日、抱っこしていた子どもをあなたは降ろす。

そして、2度と同じように子どもたちを抱っこすることはなくなる。

ある夜、あなたは浴槽で子どもたちの髪を洗う。

その日から、子どもたちは1人でお風呂に入りたいと言い出す。

道を渡るとき、子どもたちはあなたの手を握ってくる。

その日以降、2度と手を握ってとせがまれなくなる。

夜中に一緒に寝たいと子どもたちが布団に入ってくる。それが、子どもたちがあなたの横で眠る最後の夜になる。

ある午後、あなたは子どもたちと一緒に振り付けつきで歌を歌う。そしてその歌を再び歌う事はなくなる。

学校まで送っていき、子どもたちがじゃあねとキスをしてくれる。でも次の日、一緒に来なくていいよと言われる。

寝る前の子どもたちに絵本を読んであげるのも、汚れている子どもたちの顔をきれいにしてあげるのも、必ず最後の回を迎える。

子どもたちが駆け寄ってきてあなたの腕の中に飛び込んでくるのにも、最後はある。

実際のところ、その最後のときが来るのは、いつかわからない。

続きがなくなるそのとき。

そのときが来たとしても、あなたがそれに気づくまでしばらく時間がかかるかもしれない。

だから、今こうした瞬間を生きているなら、それが実はそうたくさん残っていないということを覚えておいてほしい。それが最後を迎え、過ぎ去ってしまったとき、あなたは何でも差し出してでも、その瞬間たちをもう一度体験したいと感じるようになるから」

 

絶望したり疲れたりしたときは、この美しい手紙を読んでみてください。母親でいるのは大変なことですが、それはまた愛しい瞬間に満ち溢れたかけがえのない体験なのです。

【ありがとうの握手で流した涙】

1991年、本田宗一郎さんは亡くなっています。
生前、宗一郎さんは、こんなことを言っていたそうです。

「素晴らしい人生を送ることができたのも、
 お客様、お取引先のみなさん、社会のみなさん、従業員のみなさんのおかげである。
 俺が死んだら、世界中の新聞に“ありがとうございました”という感謝の気持ちを掲載してほしい」

実は、宗一郎さんは結構早く、社長を引退しているんです。
66歳で引退し、いわゆる「会長職」にも就いていません。
「終身名誉顧問」にはなったんですけれども、仕事からは、一気に離れたそうです。

で、社長を辞めた後、宗一郎さんは何をしたかというとですね、
日本中にある、ホンダの事業所…
販売店から工場から…当時、700カ所あったそうですが、
その700カ所すべてを回って、すべての従業員一人一人と握手して、
「ありがとう、ありがとう、いつもありがとう!」
と言い続けていたそうです。

しかも、中には、2~3人しか働いていないような、
ものすごく田舎の販売店もあったのですが、…そんなところも全部回ったそうです。
そして、その後、海外事業部も全部回ったそうです。

全部まわって一人一人と握手して…何年もかかったそうです。

周りの人たちは、

「ホンダの創業者が直々に握手しにいけば、社員のモチベーションはあがりますよね。
 仕事をもっと頑張ってくれて、業績も上がりそうですよね。だから握手しに行くんですね」
って言っていたそうです。

でも、実はそうじゃないんです。宗一郎さんはそんなこと、どうでもいいんです。
自分がお礼を言いたいからまわっているだけだったんですって。

ある日ね、田舎の販売店をまわった時に、車の整備をしていた人が、
「宗一郎さんが来た!」って聞いて、喜んで走ってきたんですって。
握手してもらいに。

で、握手をしてもらおうと思って自分の手を差し出した瞬間に、
「アッ!」って言って、パッと自分の手を引っ込めたんですって。
なぜかと言うと、手が油まみれだったんですね。仕事中に急いで走ってきたから、
「今、洗ってきます!」
って、手を洗いに行こうとしたら、
宗一郎さんは
その社員の背中に向かって、
「その油まみれの手がいいんだ!」
って言って、
その整備士を引き止めて、握手したそうですよ、両手で。

でね、嬉しそうにその手をながめて、
目を細めて、手の油のにおいをかぐんですって。
そんなの見てたら感動しますよね。
泣きますよね。

宗一郎さん、こんなことも言っていたそうです。

「握手すると、みんな泣くんだ。そして、その涙を見て、自分も泣くんだ」って。

すごいですよ、この人。だから、本気ですよ。

この「ありがとう」は。本当に心からみんなに感謝しているんですよ。

「私が一番受けたいココロの授業」より

二年前にインドを旅行した時

ネパールまでの長距離バスの中で私は気分が悪くなり、 めまいと吐き気を覚えたために、

途中で降りて小さな村に泊まった。


その時、バススタンドで四歳くらいの少女に出会った。


彼女は小さいのに物乞いをして生活をしているようだったが、

気分が悪くうなだれている私の前に座って、

自分が物乞いをして手に入れたと思われる小さなしおれたみかんを一つ、

私の手を引っぱってにぎらせ、


「カーオー、カーオー(食べろ、食べろ)」と言う。


私はのどが渇いていたので小さな声で、

「シュックリア(ありがとう)」と言ってみかんをもらった。


すると少女はダーッと道の向こうに走って行った。


見ると少女は金持そうなおばさんに物乞いをしている。


何回も何回も手を差しのべるが、おばさんはガミガミと何か言って少女を追いはらった。


今度少女は、すぐ近くで見ていた男の人に手を差しのべた。


男の人は胸のポケットから硬貨を取りだし、少女の手ににぎらせた。


私は「ああ、もらえてよかったね」と心の中で思った。


お金を手にした少女は、またダーッと走った。


私は少女のくれたみかんで気分が少し楽になっていた。

なにやら少女は御茶屋で話しこんでいる。

ずーっと見ているとお茶を負けてくれと頼んでいるらしいのだが、

突然ニコッとこっちを見るとお茶屋から二杯のチャイを手にして私の所へ走って来た。


「ピーオ(飲みな)」

と小さな汚れた手でお茶のコップを熱そうにつかんで差し出した。


私はこの時ほどうれしく、

涙があふれそうになったことはなかった。


彼女の目は貧しいのにキラキラと光って力強く見えた。


どこの国の人かも知らず、

今日食べるものもない自分のわずかな食べ物を、

経済大国から来た大名旅行者に分けてくれた彼女のやさしさを、

今も忘れることはできない。

— vol.1553[優しさ]|100人の1歩 ~応援ブログ~ (via soulboy)

ごめんね!

幼い頃に父が亡くなり、 母は再婚もせずに俺を育ててくれた。

学もなく、技術もなかった母は、 個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立

てていた。 それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、 何

とか母子二人で質素に暮らしていけた。 娯楽をする余裕なんてなく、 日曜日

は母の手作りの弁当を持って、 近所の河原とかに遊びに行っていた。

給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先から プロ野球のチケットを2枚もらってきた。

俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、 母はいつもより少しだけ豪華

な弁当を作ってくれた。 野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係

員に止められた。 母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。

チケット売り場で一人1000円ずつ払って チケットを買わなければいけないと

言われ、 帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、 外のベンチで

弁当を食べて帰った。 電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、

母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉

強した。 新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。

結婚もして、母に孫を見せてやることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。 死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出し

たように「野球、ごめんね」と言った。 俺は「楽しかったよ」と言おうとした

が、 最後まで声にならなかった。合掌 【野球ごめんね より】

ひどいイジメだった。胃潰瘍ができた。 毎日毎日、恐怖が続いた。

いまもそのトラウマが残っている。 僕がボクシングを始めた理由。

それは、中学のときのイジメだ。 相手に仕返しするためじゃない。

自分の身を守るため。 パンチを打つのではなく、 相手のパンチをよけるため。

僕は強くなりたいと思った。 僕は北海道の豊浦町で生まれた。

家は貧しかった。サビだらけのトタン板で囲われた木造二階建て。

窓は木枠でできていたけれど、きっちり閉まらない。

毎年、冬の寒さをしのぐため、ビニールを打ち付けて、窓をふさいでいた。

僕には父親の記憶がない。 僕が生まれてすぐに離婚したらしい。

母親は、自宅の離れで食堂兼民宿を営み、 朝から晩まで忙しく働いた。

なにも買ってもらえなかった。 中学時代当時の僕は、身長が140センチくらい。

相手は170センチ以上あるやつもいて、 喧嘩してもかなわないと思った。

僕は笑いのものにされ、 使いっぱしりをさせられ、それでもご機嫌をとり、

媚を売りながら生きていた。 母親には隠していたけれど、ある日、お腹が痛

くて病院に行くと、 胃潰瘍ができていた。 中学三年になって、さらにイジメ

はエスカレートした。 モノを隠され、 靴を捨てられ、 服を脱がされた。

もう、限界だと思った。 カラスやスズメ、 虫でもいい 人間以外のものになり

たかった。 学校に行きたくなかった。 そのとき、佐々木先生が異変に気づい

てくれた。 先生は、小さくて、 運動神経がよくて、サッカー部の顧問。

歳は25歳くらい。 生徒との距離が近くて、 冗談が通じるやわらかい雰囲気

を持った人。 その佐々木先生がホームルームで、こう切り出した。

最近、誰かが、誰かをからかっている。 特定の人に、ひどいことをしている。

誰がやっているか、思い当たる人は手をあげろ! 誰も答えない。

すると先生は、大声であいつの名を呼んだ。おまえのことを言ってんだよ!!

シーンとなった。 僕は、ビックリした。 すごいと思った。

こんな大人もいるんだと思った。 先生が叫んでから、イジメはおさまった。

僕は、ボクシングを始めた。 不思議なことに、強くなると、やり返そうとい

う気持がなくなった。「 先生のひとことで、救われたんだよ」!

フライ級の日本一になって北海道に帰ったとき、 先生にそう言った。

先生は、変わらぬ優しい笑顔で、小さくうなずいた。

【元日本フライ級王者内藤選手の逸話より】

先生は、聖職でなければならない。全員とは、云わないがサラリーマン先生が多い昨今、佐々木先生のような方がいなくなった。合掌

山元加津子(石川県立小松瀬領養護学校教諭)
(『致知』199711月号)

きいちゃんという女の子は、手足が不自由でした。そして、いつもうつむきがちの、どちらかというと暗い感じのするお子さんでした。

そのきいちゃんが、ある日とてもうれしそうな顔で、「山元先生」と言って職員室に飛び込んできてくれたのです。

「お姉さんが結婚するのよ、今度私、結婚式出るのよ。ねえ、結婚式ってどんななの、私どんな洋服着ようかな」と、とてもうれしそうでした。

「そう、良かったね」

と、私もうれしくなりました。

ところが、それから一週間もしないころ、今度はきいちゃんが教室で泣いている姿を見つけたのです。

「きいちゃんどうして泣いているの」

と聞くと、

「お母さんが、結婚式に出ないでって言うの。私のことが恥ずかしいのよ。お姉ちゃんばっかり可愛いんだわ。私なんか産まなきゃ良かったのに」とそう言って泣いているのです。

きいちゃんのお母さんは、お姉さんのことばかり可愛がるような方ではありません。どちらかというと、かえってきいちゃんのことをいつも可愛がっておられて、目の中に入れても痛くないと思っておられるような方でした。

けれどもしかしたら、きいちゃんが結婚式に出ることで、例えば障害のある子が生まれるんじゃないかと思われたり、お姉さんが肩身の狭い思いをするんじゃないかというようなことをお母さんが考えられたのかなと、私は思ったりしていました。

きいちゃんに何と言ってあげていいかわかりませんでしたが、ただ、結婚式のプレゼントを一緒に作ろうかと言ったのです。

お金がなかったので、安い晒(さら)しの生地を買ってきて、きいちゃんと一緒にそれを夕日の色に染めたのです。それでお姉さんに浴衣を縫ってあげようと提案しました。

でもきいちゃんは手が不自由なので、きっとうまく縫えないだろうなと思っていました。けれど一針でも二針でもいいし、ミシンもあるし、私もお手伝いしてもいいからと思っていました。

けれどきいちゃんは頑張りました。

最初は手に血豆をいっぱい作って、血をたくさん流しながら練習しました。一所懸命にほとんど一人で仕上げたのです。

とても素敵な浴衣になったので、お姉さんのところに急いで送りました。するうとお姉さんから電話がかかってきて、きいちゃんだけでなく、私も結婚式に出てくださいと言うのです。

お母さんの気持ちを考えてどうしようかと思いましたが、お母さんに伺うと、「それがあの子の気持ちですから出てやってください」とおっしゃるので、出ることにしました。

お姉さんはとても綺麗で、幸せそうでした。でも、きいちゃんの姿を見て、何かひそひそお話をする方がおられるので、私は、きいちゃんはどう思っているだろう、来ないほうが良かったんだろうかと思っていました。

そんなときにお色直しから扉を開けて出てこられたお姉さんは、驚いたことに、きいちゃんが縫ったあの浴衣を着ていました。

一生に一度、あれも着たいこれも着たいと思う披露宴に、きいちゃんの浴衣を着てくださったのです。

そして、お姉さんは旦那さんとなられる方とマイクの前に立たれ、私ときいちゃんをそばに呼んで次のようなお話をされたのです。

「この浴衣は私の妹が縫ってくれました。私の妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由です、でもこんなに素敵な浴衣を縫ってくれたんです。

高校生でこんな素敵な浴衣が縫える人は、いったい何人いるでしょうか。

妹は小さいときに病気になって、家族から離れて生活しなければなりませんでした。私のことを恨んでるんじゃないかと思ったこともありました。

でもそうじゃなくて、私のためにこんなに素敵な浴衣を縫ってくれたんです。

私はこれから妹のことを、大切に誇りに思って生きていこうと思います」

会場から大きな大きな拍手が沸きました。きいちゃんもとてもうれしそうでした。

お姉さんは、それまで何もできない子という思いできいちゃんを見ていたそうです。

でもそうじゃないとわかったときに、きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきた。

これからもきいちゃんとして生きていくのに、もしここで隠すようなことがあったら、きいちゃんの人生はどんなに淋しいものになるんだろう。

この子はこの子でいいんだ、それが素敵なんだということを皆さんの前で話されたのです。

きいちゃんはそのことがあってから、とても明るくなりました。そして「私は和裁を習いたい」と言って、和裁を一生の仕事に選んだのです。

 

「お母さん」
村一番の働き者だったばかりに所望されて貧しい農家から豪農に嫁いだお母さん!黒光りのする大きいいろりに丸太木が赤々と燃えていても嫁の座はなく 凍てつく夜も床に座って大所帯の着物を縫う。
朝は夜の明けぬうちに野郎へ出たというお母さん!仕事がはかどれば根気なしの一たん仕事よと皮肉を言われ仕事が、はかどらなければ青虫が這うようだとのの しられ、声を殺して泣いていたというお母さん!空腹の時は、生大根を拔いて畑のすみでかじったというお母さん!なぜ! なぜ! お母さんは、奴隷のような 生活に耐えていたの!
子どもをおいてとび出さなっかたの、わたしは歯ぎしりしてたずねた。
その時お母さんは言いましたね、野に住むキジは野火に体を焼かれても羽の下にひなを守っているのだよ、と畜生でさえ命をかけて子を守るのに人の親が我が子を捨ててなるものか、たとえ引き裂かれても身を粉にしても子を守るのが親の道 親の愛だと
みずからの肉をそぎ骨をけずるにひとしい日を送って老いてしまった、お母さん!足が動かず片目がみえなくなったのに、それでも残る片目で子どもの未来をみ つめ子どもが病気になったら這ってでもいざってでも介護するというお母さん!お母さん!こんどは子ども達がお母さんを包む番です、そしていつまでもいつま でも生きてほしいのです。

保育園のころ、魔法を使える先生がいた。
その人のことを、ここでは「まこ先生」としよう。30代前半で、職場では中堅のスタッフとして活躍していた。もちろん当時の私はあまりにも幼く、先生たち の年齢をきちんと把握していたわけではない。「若い先生/大人な先生/おばあちゃん先生」……それくらいザックリした認識しかできなかった。子供ながらに 「まこ先生は頼りがいのある大人の先生だ」と思っていた。
まこ先生は、私が5歳のときの担任だ。
私が通っていたのは公立の保育園だ。高所得家庭の子供だけが集まる(?)私立保育園ならいざ知らず、様々な境遇の親たちが子供を預けていた。
とくに私の学年には、近隣の悪ガキどもが集結していた。暴れる、噛み付く、ひっかくのは当たり前。おもちゃはすぐに壊され、床や壁は汚される。みごとに手 のかかる子供ばかりだった。すり傷やたんこぶは日常茶飯事だったし、親たちもいちいち目くじらを立てなかった。最近の保育園ではどんなに小さな怪我も許さ れないと聞いている。それに比べれば、なんというか、おおらかな時代だったのだろう。
私たちは3歳~4歳のときに数々の伝説を作り、悪評を確かなものにしていた。そして、そろって5歳児クラスに進級した。そこで出会ったのが、まこ先生だった。
その保育園は2人担任制だった。まこ先生のほかにもう1人、とても若い先生──ここでは「きく先生」としよう──が、私たちのクラスを担任していた。さら に時々、見覚えのない先生が来ていた。たぶんパートタイムの保育士を雇っていたのだろう。まこ先生ときく先生の2人の正規職員+パートタイムの計3人で、 最凶の悪ガキ集団を迎え撃ったのだ。



きく先生は、子供からあまり好かれていなかった。
決まりごとに厳格で、ルール違反を絶対に見逃さなかった。たとえばお昼寝の時間。横にならない子供が1人でもいると、烈火の如く怒った。眠気があろうとな かろうと、子供たちを片っ端から布団に叩き込んでいた。私は昼間に眠くならない子供だったので、きく先生に監視されているお昼寝の時間がひたすら苦痛だっ た。
たとえばお散歩に出かけるとき、給食を食べるとき、そして読み聞かせをするとき。そんなときは、子供を1カ所に集めなければいけない。大人の言うことを聞 かせなければいけない。ルールに厳格なきく先生は、きっと、号令1つで子供が動くのを理想としていた。「集まりなさい!」と命令すれば、子供たちが遊びを パッとやめて駆け寄ってくる。彼女はそういう状況を求めていた。
しかし私たちは悪ガキ様ご一行だ。そんなこと、できるわけがない。
言うことを聞かない私たちに対して、きく先生はヒステリックに怒鳴るだけだった。「集まりなさい!」「遊びをやめなさい!」「こっちに来なさい!」そして 「言うことを聞きなさい!」……まこ先生が休んだときは、きく先生の怒声が教室に響くのだ。やがて子供たちも慣れてきて、きく先生の言葉を聞き流すように なった。「はいはい、集まればいいんでしょ?」みたいな斜に構えた態度を取るようになった。子供とはいえ、5歳にもなれば「話を聞くふり」ができるように なる。心の中では相手をバカにしているのに、態度だけ取り繕うことができるようになる。


まこ先生は違った。
たとえば子供を集めるとき。まず右手の指を3本、左手を2本伸ばして、胸のまえに突き出す。そして「あわせて、いくつだ!?」と近くの子供に聞く。相手は ぽかんとしながら、「5つ?」と答える。「正解! それじゃ次は……」と、また違う組み合わせの指を差し出す。遠くから見ていた子供たちが(何か面白そうなことをしているぞ?)と気づいて、まこ先生の周り に集まってくる。
そして3分後には、クラス全員がまこ先生の前に集まって、われ先に「指の数クイズ」に答えようとしているのだ。
指の数を当てさせるだけではない。ある時は、なぞなぞを駆使していた。
「暗くって、暗くって…暗ぁ~いモノは、な~んだ!」
まずはかんたんな問題から。まこ先生の近くにいる数人が、声を揃えて「夜~!」と答える。
「正解! それじゃ次は……白くって、冷たくって、甘ぁ~いモノは、な~んだ!」
これもかんたんな問題。子供たちは大声で「アイスクリーム!」と答える。遠巻きに眺めていた子供も、(なんだか楽しそうだぞ)と近寄ってくる。
「次の問題は、ちょっぴり難しいよ~?」
もったいぶった口調で、まこ先生は言う。
「高くって、高くって、高~いモノは、な~んだ!」
「天井!」「屋根!」「うんてい!」
子供たちは口々に、自分の知っている「高いもの」の名前を上げる。
「ううん、もっともっと高いものだよ?」
遠くのほうで遊びに夢中だった子供たちか(まこ先生が何かしてる)と気づく。次々に集まってくる。
「えっと~、サンシャイン!」「東京タワー!」「富士山!」
子供たちは夢中になって、矢継ぎ早に答えを口にする。まこ先生は首をふる。
「いいえ違います!もっともっと、も~っと高いもの!」
いつの間にか、クラス全員がまこ先生の周りに集まっている。
そして声を揃えて、「「空!」」と叫ぶ。
「はい、正解です!」
まこ先生はニコッと笑う。
「それでは空を見に、みんなでお散歩に行きましょう!」


これは一例にすぎない。まこ先生はありとあらゆる手段を使い、悪ガキ連中を意のままに操っていた。優しいばかりではなく、イタズラをしたときは厳しく叱られた。私も何度かげんこつを落とされた覚えがある。それでも、まこ先生がヒステリックに怒鳴ることはなかった。
子供の主体性を引き出して、自発的に大人の言うことを聞かせる。
まこ先生の技術はまるで魔法だった。


     ◆

先日、まこ先生は長年務めた保育園をやめた。
定年よりも少しだけ早い退職だった。まこ先生いわく、体力が衰えたからだという。子供の抱っこがつらくなったから、もう保育士は続けられないと判断したそうだ。園長や役所の管理職を目指すのではなく、まこ先生は最後まで保育の現場に立ち続けた。
まこ先生のかつての教え子や、その親たちが集まって、ささやかな「お疲れさま会」を開くことになった。
私も同席した。20年ぶりに再会したまこ先生は、記憶のなかの姿よりもずっと小さかった。目尻や口もとには年相応のしわが刻まれて、「お酒は医者に止められているから」とウーロン茶しか飲まなかった。まこ先生はすっかり「おばあちゃん先生」になっていた。


きく先生が苦手だったこと。まこ先生はまるで魔法使いだったこと。
私がそんなことを話すと、まこ先生は控えめに笑った。
「きく先生だって、悪い先生じゃなかったのよ?」
ウーロン茶で口を湿らせて、まこ先生は続けた。
「たしかに、ちょっとマジメすぎる部分はあったけれど……でも、保育に対する情熱は私と変わらなかった。もしかしたら、情熱は私よりも強かったかもしれないわね。少なくとも『話を聞く子を育てたい』という目標は同じだった」
表面的な態度を取り繕うのではなく、心から大人の言うことを聞く子供。大人が与える言葉や知識を、すんなりと飲み込める子供。そういう子供でなければ、小 学校に上がってから苦労する。幼児教育においても「保育目標」が設定されていて、子供たちを一定の水準まで育てあげる義務があるという。
「大人の命令を聞くという意味じゃないわよ」まこ先生は念を押した。「先生や親の授ける知識をスッと受け止めて、自分の頭で判断できるようになる。そのた めには、大人の話をきちんと聞く子供でなくちゃいけない。私たち保育士がそういう子供を育てられなければ、その子の一生が滅茶苦茶になっちゃうわ」
責任の重たい仕事だったわね、まこ先生はしんみりと言った。
「だけど、ばつぐんに面白い仕事だった」
私は食い下がった。
「そうは言っても……やっぱり、きく先生のやり方がいいやり方だったとは思えません。子供たちはみんな、きく先生の話を聞く“ふり”をしていました。まこ先生のおっしゃる『目標』とは真逆ではありませんか?」
「そうね」
まこ先生は目を伏せる。
「気づいてほしかったけれど……。きく先生は気づいてなかったのかもしれないわね」
「気づくって、何に?」
子供は考えるのが好きだってことに」
昔のように、まこ先生はニコッと笑った。



指の数クイズも、なぞなぞも、まこ先生の技術は「子供に考えさせる」のが土台になっていた。「考える遊び」を駆使して、まこ先生は悪ガキどもに言うことを聞かせていた。
子供の「考える力」には個人差がある。
なかには頭の回転が速い子供がいる。言葉が達者で、口から先に生まれてきたような子供がいる。その一方で、ぼんやりしていて、何をするにもワンテンポ遅れてしまう子供がいる。けれど、どんな性格をしていようと子供は考えるのが好きだ。まこ先生は、そう言った。どんなにおっとりした子でも、その子なりに「自分で考える」のは楽しいのだ。頭を使うのはよろこびなのだ。
「だから、まったく考える余地を与えなければ、子供は言うことを聞かなくなる。表面的に取り繕うだけになってしまうの。反対に、ちゃんと考えさせれば、子供はきちんと言うことを聞く」
そして自分で考えた結果が「上手くいった」と経験するのが楽しい。1~2歳なら、パンツを自分で履けた。靴下がうまく履けた。そんな小さな成功が、子供は嬉しい。だから子供が何かに初めて成功してたとき、大人がきちんと褒めるのが大切だという。
「なるほど! 子供は褒めて育てるのが正解なんですね!」
「そうは言っても、褒めすぎもよくないのよ?」
「だけど…頭ごなしに怒鳴るよりもいいですよね!」
「怒鳴りたくなることぐらいあるわよ。人間だもの」
40年近く子供と向き合ってきた人は、考え方の“厚さ”が違った。
「すごい、すごいと何をしても褒める親がいるけれど……褒めすぎると、今度は『すごい』と言われないと不安な子供に育ってしまうの。トイレに行っただけで 『すごい?』と親に訊く。靴を履けただけで『すごい?』と承認を求める。できて当たり前のことを褒めるのは、子供にとってプラスにならないと思うわよ」
まこ先生は言葉を区切った。
「それから、今の親たちは忙しいでしょう。朝から晩まで働いて、くたくたに疲れて帰宅する。なのに子供はタダをこねて、まったく言うことを聞かない。そん なとき、怒鳴るなというほうが無理でしょう。どんなときでも笑顔を絶やさないのは、超人的なお母さんにしかできないわ。大人だって怒ることもあれば、キレ ることもあって当然。人間なんだから」
私はおずおずと答えた。
「そうは言っても……子供に対してムキになって怒るのは、やっぱりよくないことだと思います」
「そうね。子供の扱いに慣れていたら、怒らないで済むかもしれないわね。大人がカッとなるのは、子供に言うことを聞かせる方法が分からないからだと思う の。どうしても子供が言うことを聞かないから、どうすればいいか分からなくなって……それで頭に血が昇るんじゃないかしら」
「つまり、子供に慣れるのが大事ってことですか」
「そう、今の親たちは子供に接する機会に乏しい。人によっては、自分の子供ができるまで、まったく子供の面倒を見ずに大人になる」
だから子供の扱い方が分からない。
「たとえば、何を褒めるべきで何を褒めなくていいのかのさじ加減とか、疲れ切っているときでもキレずに済ませる方法とか、そういうものは子供と接してみな いと分からない。子供と向き合った時間が長ければ長いほど、子供がどういう生き物なのか分かってくる。そして、うまく子育てができるようになる。私はそう 思うわ。……ところで、あなたは結婚していなかったわね。あなたの身近に子供はいるかしら?」
「はい、姪っ子たちと……あとは子持ちの友人が何人かいます」
「だったら、その子たちとできるだけたくさん会っておくといいわね。あなたの知らないことを、子供はたくさん教えてくれるはずよ」
「そうすれば、私にも魔法が使えるようになるでしょうか?」
「魔法?」
まこ先生は首をふる。
「そんな大それたものじゃないわ、私は自分にできることをしていただけよ。私には保育ぐらいしか、できることが無かったから」



「人種差別」
50代とおぼしき妙齢の白人女性が機内で席につくと、彼女は自分の隣が黒人男性であるという事に気がついた。 周囲にもわかる程に激怒した彼女はアテンダントを呼んだ。
アテンダントが「どうなさいましたか?」と訊くと「分からないの?」とその白人女性は言った。「隣が黒人なのよ。 彼の隣になんか座ってれないわ! 席を替えて頂戴」
「お客様。落ち着いていただけますか」とアテンダント。

「当便はあいにく満席でございますが今一度、空席があるかどうか、 私調べて参ります」
そう言って去ったアテンダントは、 数分後に戻って来てこう言った。
「お客様、 先ほど申し上げましたように、こちらのエコノミークラスは満席でございました。ただ、機長に確認したところ ファーストクラスには空席が あるとのことでございます」そして、女性客が何か言おうとする前に、アテンダントは次のように続けた。

「お察しとは存じますが、 当社ではエコノミークラスから ファーストクラスに席を替えると いう事は通常行っておりません。しかしながら、或るお客様が不愉快なお客様の隣に座って道中を過ごさざるをえない、という事は当社にとって恥ずべき事とな ると判断いたしますので当然事情は変わって参ります」そして黒人男性に向かって アテンダントはこう言った。 「ということで、お客様、もしおさしつかえなければ お手荷物をまとめていただけ ませんでしょうか?
ファーストクラスのお席へ ご案内します。」 近くの乗客が、歓声をあげるのを その白人女性は呆然と眺めるだけであった。スタンディングオベーションを送る者もいた。合掌

“私がまだ若かった頃の話・・ 17歳だったかな・・・ その頃には親公認で煙草、酒・・ 子供の頃から 「人の物は絶対に手を出しちゃいけない!!」 と言われ続けたので 万引きには手を染めず済んだ 「人に迷惑をかけるな!それ以外なら何をしたっていい!  何だって経験だから・・・」 私が少しヤンチャになった頃、父に言われた 私は親の言う事を聞かない だから、そこは諦めて窮屈にさせずにいてくれた 私には女の子特有の「お父さんが嫌い!!」の時期が無い 嫌いになる原因が無かった カッコよくて 優しくて 絶対に守ってくれる・・ 私の事を世界で1番愛してくれている!!という自信もあった なので、嫌いになんかならなかった むしろ大好き 話は戻る・・・17歳の夏 真夜中に帰ってきたり・・帰ってこなかったりの娘 だからと言って特に悪い事をしている訳ではなかった 友達の家で朝まで、しゃべったり・・・ たまーーーーに、町に出たりはしていたものの 彼氏は欲しいがナンパ等のつまらない男の子達には興味も無かった ある日父から 「麗子たまには、お父さんと飲みに行こう  何でも好きな物食べて何処でも連れて行ってやる  チョットおしゃれしてこい」 と言われた 面倒のような気もしたが、その頃、夜の街に興味も有り出掛けた 町に出る車中で父が言った 「今日はトコトン飲むぞ!!もうダメって程 飲め  お父さんが責任持つからな アホみたいに飲もうぜ」 おいおい いいのかよ・・・お母さんに怒られるぞ~ などと思ったが お父さんが責任持つんだからいいか・・・ 1軒目 父行きつけの串焼き屋に到着 女将の「みっちゃん(父)が彼女連れて来ちゃったかと思ったよ~」の1言で気を良くした父は2軒目から彼女だって事にしろよ!と完全に舞い上がった様子 二人でかなり飲み店を後にする 2軒目 父の行きつけのクラブに到着 父のご指名の女の人に 「娘さんでしょ?」とアッサリ見破られるも、これまた上機嫌 「俺に似てるんだよなぁ・・目が似てるからなぁ・・」 要らぬ説明をし 嬉しそうに飲み続ける 3軒目 父の行きつけの寿司屋に到着 大将に「いいなぁ娘と一緒に飲みに行くなんて 幸せだねぇ 親父の夢だよなぁ」等言われ、またもやご満悦 「好きなもん喰えよ たまにしか一緒に来ないんだから」と父 初めてじゃん・・・小さな見栄。。張ったな。。。 4軒目 父行きつけの居酒屋 この辺はもう覚えていない・・何を飲んだかも・・話の内容も・・ 5軒目 父行きつけのスナック まったく覚えが無い カウンターにつっぷしダウン 父はタクシーを呼び私を背負ってくれた この時一時的に意識を取り戻し 「気持ちいいなぁ・・お父さんゴメンね 酔っ払っちゃった」 「いいよ。寝てろ」 朝、目覚めると部屋のベットに寝かされていた 父と顔を合わせるのが気まずい・・・ リビングに行くと父はもう出掛けていた 母に広告の裏に書いた手紙を渡された 「 麗子へ    昨日は楽しかったな  また、行きたいよ また一緒に行こうな  昨日、麗子が飲んでグロッキーした酒の量はわかるか?  ビール2杯、チュウハイ5杯、・・・・。。。。。  それが、お前の量だぞ  今度、誰かと飲みに行っても、その量の手前で帰ってこい  世の中はいい奴ばかりじゃない  騙してどっかに連れて行かれたら  お父さんは守ってやれないから  だから、お前の量を教えようと思ったんだ  必ず守ってくれよ  お父さん信じてるけどな・・・               お父さんより      」 涙が出るのを必死で堪え朝食を食べた 母が、お父さんはずっと心配していた・・でもどういう風に伝えたらいいか?悩んでた・・縛ってもいけない。 あの子は、そういう子だから 縛ったら帰らなくなる子だから・・・ 今思えば、あの頃本当に心配だったと思う 好き勝手な事をして遊んでいたから・・・ ありがとう。お父さん お陰で誰かに騙される事無く遊べました。 お酒で失敗は、あまりしませんでした。 つまらない事で傷つく事も無く青春を謳歌いたしました 感謝しています。 女の子を持つ父親はきっと自分が男だけに 心配なんだろう 父も昔のようにカッコ良くはなくなった もう、お爺ちゃんだ あの頃のように夜の町を歩く父は、もういない 趣味の畑で野菜を作り私や孫に食べさせるのを楽しみにしている 今の私があるのは父のお陰だ いくら感謝しても、足りないな・・・” — [mixi] 日記ロワイアル | 父の教育 本当に伝えたいこと、それと、それを表現する方法。 (via mcsgsym)