幽々自適。
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美女と野獣の痴態。


今昔物語集巻二十第七より「染殿ノ后天宮ノ為ニギョウ(女偏に堯)乱セラルル語」

昨日ツイッターにて大興奮で書いていた上記のお話。
今昔物語集の原文がネットで見つからないため、真偽不明になりつつあったものを書き起しました。
起したは良いのですが、直後に原文が見つかるという顔面蒼白の展開。
私の一時間半は一体何だったのかと号泣しそうになりましたが、犬死も可哀想なのでここで供養。もういい。私の備忘録だ。

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概略だけ掻い摘んで説明いたします。

文徳天皇の母にあたる染殿の后(藤原明子)は世にも美しく尊い女性で、それ故、数多の物の怪に悩まされていた。どうにかせねばと考えた太政大臣(藤原良房)は、強い霊験を持つ金剛山の僧(聖人)に解決を依頼する。
聖人は勅命に従い渋々下山、染殿の物の怪を取り除いた。太政大臣に請われるがままに京へ留まった聖人は、そこで染殿の得も言われぬ美しい姿を垣間見、一目で恋に落ちる。
どうにかして我が物にすべきと夜に寝所へ忍び込むが、染殿の抵抗に遭い、侍医の鴨継によって捕えられる。天皇の怒りを買った聖人は牢へ繋がれるが、彼の「鬼になって染殿を手に入れる」との言葉に宮中は騒然となり、即時釈放、山へと放逐される。
金剛山へ帰った聖人はそれでも染殿を忘れられず、十日の断食の末、死して鬼と化す。その姿は青黒く異形そのもの。恐ろしい物の怪となった聖人は、そのまま染殿の寝所に再度躍り入った。
しかし逃げ惑う女房達に反し、染殿は美しい笑みを浮かべ、醜い鬼を床へ招き入れる。
「いつも恋しく思っていた」という鬼の睦言を聞き、笑い声をあげる染殿を見ながら、皆は戦々恐々としていた。
鬼が去った後、何でもない風に見える染殿を前に、天皇は訝しげに思いながらも彼女を哀れに思った。その後も鬼は現れ続ける度、染殿は寝所へ招き入れるのだった。
頭を抱えた太政大臣は全国から僧を招き、加持祈祷を行った。その結果、鬼は姿を見せなくなり、三か月が経った。
久々の御幸があり、天皇が染殿の様子を見に現れた。その途端、部屋の隅から件の鬼が現れる。
染殿は再び鬼を招き入れ、公衆の面前で痴態に溺れるのだった。

↓以下、本文です。

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今昔、染殿ノ后ト申スハ、文徳天皇ノ御母也。良房太政大臣ト申ケル関白ノ御娘也。形チ美麗ナル事、殊ニ微妙(めでた)カリケリ。而ルニ、此后常ニ物ノ気ニ煩ヒ給ケレバ、様々ノ御祈共有ケリ。其中ニ世ニ験(しる)シ有ル僧ヲバ召シ集テ、験者修法有レドモ、露ノ験シ無シ。
而ル間、大和葛木ノ山ノ頂ニ、金剛山ト云フ所有リ。其山ニ一人ノ貴キ聖人住ケリ。年来此所ニ行テ、鉢ヲ飛シテ食ヲ継ギ、瓶ヲ遣テ水ヲ汲ム。如此ク行ヒ居タル程ニ、験無並(しるしならびな)シ。然レバ、其聞エ高成(たかくなり)ニケレバ、天皇幷(ならび)ニ、父ノ大臣、此由ヲ聞食(きこしめ)シテ、「彼レヲ召シテ、此ノ御病ヲ令祈(いのらし)メム」ト思食シテ、可召キ由被仰下(おおせくだされ)ヌ。使聖人ノ許ニ行テ、此由ヲ仰スルニ、聖人度々辞(いな)ビ申スト云ヘドモ、宣旨難背キニ依テ、遂ニ参ヌ。御前ニ召テ、加持ヲ参□(まゐら:□は欠損)ルニ、其験シ新タニシテ、后一人ノ侍女忽ニ狂テ哭キ嘲ル。侍女ニ神託(かみつき)テ走リ叫ブ。聖人弥(いよい)ヨ此ヲ加持スルニ、女被縛(おんなしばられ)テ打チ被責(せめら)ル間、女ノ懐ノ中ヨリ一ノ老狐出テ、転(くるべき)テ倒レ臥テ、走リ行事能(あたふべ)カラズ。其時ニ、聖人ヲ以テ狐ヲ令繋テ、此ヲ教フ。父ノ大臣此レヲ見テ、喜給フ事無限シ。后ノ病、一両日ノ間ニ止ミ給ヒヌ。
大臣此レヲ喜給テ、「聖人暫ク可候キ」由ヲ仰セ給ヘバ、仰ニ随テ暫ク候フ間、夏ノ事ニテ、后御嘽衣許(おんひとえばかり)ヲ着給テ御ケルニ、風御几帳ノ帷(かたびら)ヲ吹キ返シタル迫(はさま)ヨリ、聖人髴(ほのか)ニ后ヲ見テ、聖人忽ニ心迷ヒ肝砕テ、深ク后ニ愛欲ノ心ヲ発(おこ)シツ。
然レドモ、可為キ方無キ事ナレバ、思ヒ煩テ有ルニ、胸ニ火ヲ焼クガ如ニシテ、片時ヲ思ヒ遇(すぐ)スベクモ不思エザリケレバ、遂ニ心澆(あは)デ狂テ、人間ヲ量テ、御帳ノ内ニ入テ、后ノ臥セ給ヘル御腰ニ抱付ヌ。后驚キ迷テ、汗水ニ成テ恐チ給フト云ヘドモ、后ノ力ニ辞(いな)ビ難得シ。然レバ、聖人力ヲ尽シテ掕ジ奉ルニ、女房達此レヲ見テ騒テ喤(ののし)ル時ニ、侍医当麻ノ鴨継ト云フ者有リ、宣旨ヲ奉テ、后ノ御病ヲ療ゼムガ為ニ、宮ノ内ニ候ケルガ、殿上ノ方ニ、俄騒喤ル音(こゑ)シケレバ、鴨継驚テ走入タルニ、御帳ノ内ヨリ此聖人出タリ。鴨継聖人ヲ捕ヘテ、天皇ニ此由ヲ奏ス。天皇大キ二怒給テ、聖人ヲ搦テ獄(ひとや)ニ被禁(いましめられ)ヌ。
聖人獄ニ被禁タリト云ヘドモ、更ニ云フ事無シテ、天ニ仰テ泣々ク誓テ云ク、「我忽ニ死テ鬼ト成テ、此后ノ世ニ在(まし)マサム時ニ、本意ノ如ク后ニ陸(むつ)ビム」ト。獄ノ司ノ者、此ヲ聞テ、父ノ大臣ニ此事ヲ申ス。大臣此ヲ聞驚キ給テ、天皇ニ奏シテ、聖人ヲ免シテ本ノ山ニ返シ給ヒツ。
然レバ、聖人本ノ山ニ返テ、此思ヒニ不堪(たへ)ズシテ、后ニ馴近付キ、可奉キ事ヲ強(あながち)に願テ、憑(たの)ム所ノ三宝ノ祈請スト云ヘドモ、現世ニ其事ヤ難カリケム、「本ノ願ノ如ク、鬼ニ成ラム」ト思ヒ入テ、物ヲ不食ザリケレバ、十余日ヲ経テ、餓ヘ死ニケリ。其後忽ニ鬼ト成ス。其形、身裸ニシテ、頭ハ禿(かむろ)也。長(た)ケ八尺許ニシテ、膚ノ黒キ事漆ヲ塗レルガ如シ。目ハ鋎(かなまり)ヲ入タルガ如クシテ、口広ク開テ、釼(つるぎ)の如クナル歯生タリ。上下ニ牙ヲ食ヒ出シタリ。赤キ裕衣(たふさぎ)ヲ掻テ、槌ヲ腰ニ差シタリ。此ノ鬼俄ニ后ノ御マス御几帳ノ喬(そば)ニ立タリ。人現ハニ此レヲ見テ、皆魂ヲ失ヒ心ヲ迷ハシテ、倒レ迷テ逃ヌ。女房ナドハ此レヲ見テ、或ハ絶入リ、或ハ衣ヲ被(かつぎ)テ臥ヌ。踈(うと)キ人ハ参リ不入ヌ所ナレバ不見ズ。
而ル間、此ノ鬼魂后ヲ怳(ほ)ラシ狂ハシ奉ケレバ、后糸吉(いとよ)ク取リ䟽(つくろ)ヒ給テ、打チ咲(ゑみ)テ、扇ヲ差隠シテ、御帳ノ内ニ入リ給テ、鬼ト二人臥サセ給ヒニケリ。女房ナド聞ケレバ、只日来恋ク侘カリツル事共ヲゾ、鬼申ケル。后モ咲嘲ラセ給ヒケリ。女房ナド皆逃去ニケリ。良久(ややびさし)ク有テ、日暮ル程ニ、鬼御帳ヨリ出テ去ニケレバ、「后何ニ成セ給ヌラム」ト思テ、女房達忩(いそぎ)参タレド、例ニ違フ事無シテ、「然ル事ヤ有ツラム」ト思食タル気色モ無テゾ、居サセ給タリケル。少シ御眼見(おほむまみ)ヲ怖シ気ナル気付セ給ヒケル。
此由ヲ内ニ奏シテケレバ、天皇聞食テ、奇異(あさまし)ク怖シキヨリモ、「何成セ給ヒナラズム」ト歎カセ給フ事無限シ。其後、此鬼毎日ニ同ジ様ニテ参ルニ、后亦(また)心肝(こころき)モ失セ不給ズシテ、移シ心モ無ク、只此鬼ヲ媚(うつくし)キ者思食タリケリ。然バ、宮ノ内ノ人皆此レヲ見テ、哀レニ悲ク、歎キ思フ事無限シ。
而ル間、此鬼人ニ託(つき)テ云ク、「我必ズ彼ノ鴨継ガ怨(あた)ヲ可報シ」ト。鴨継此ヲ聞テ、心ニ恐ヂ怖ル間、其後幾(いくばく)ノ程ヲ不経ズシテ、鴨継俄ニ死ニケリ。亦、鴨継ガ男三四人有ケリ、皆狂病有テ死ケリ。然レバ、天皇幷ニ父ノ大臣此ヲ見テ、極テ恐ヂ怖レ給テ、諸ノ止事無キ僧共ヲ以テ、此鬼ヲ降伏セム事ヲ懃(ねむごろ)ニ祈セ給ケルニ、様々ノ御祈共ノ有ケル験ニヤ、此鬼三月許不参ザリケレバ、后ノ御心モ少シ直リテ、本ノ如ク成給ニケレバ、天皇聞食テ喜バセ給ケル程ニ、天皇、「今一度見奉ラム」トテ、后ノ宮ニ行幸有ケリ。例ヨリ殊ニ哀ナル御行也。百官不闕(かか)ズ皆仕タリケリ。
天皇既ニ宮ニ入ラセ給テ、后ヲ見奉ラセ給テ、泣々ク哀ナル事共申サセ給ヘバ、后モ哀ニ思食タリ。形モ本ノ如クニテ御(おは)ス。而ル程間、例ノ鬼俄ニ角(すみより)踊出テ、御帳ノ内ニ入ニケリ。天皇此レヲ「奇異」ト御覧ズル程ニ、后例有様ニテ、御帳ノ内ニ忩ギ入給ヌ。暫許(しばしばかり)有テ、鬼南面ニ踊出ヌ。大臣公卿ヨリ始テ百官皆現ニ此ノ鬼ヲ見テ、恐レ迷テ、「奇異」ト思フ程ニ、后又取次キテ出サセ給テ、諸ノ人ノ見ル前ニ、鬼ト臥サセ給テ、艶(えもいは)ズ見苦キ事ヲゾ、憚ル所モ無ク為セ給テ、鬼起ニケレバ、后モ起テ入ラセ給ヌ。天皇可為キ方無ク思食シ歎テ、返ラセ給ニケリ。
然バ、止事無ナカム女人ハ、此事ヲ聞テ、専ニ如然シ有ラム法師ノ不可近付ズ。此事極テ便無ク憚リ有リ事也ト云ドモ、末ノ世ノ人ニ令見(みしめ)テ、法師ニ近付カム事ヲ強ニ誡メムガ為ニ、此クナム語リ伝ルトヤ。

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現代語訳は最早書く気力が起きなかったので、外部サイト様より拝借します。
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0784somedono.htm(座敷浪人の壺蔵 様)



以前、近藤宗臣画伯(http://profile.ameba.jp/sawsin/)が個展を開かれる際、実はこのお話を下敷きに短篇を一本書かせていただきました。
もしかしたらまだ画集が販売されているかしら?
掌(たなごころ)の幻妖<http://yaplog.jp/group_r/archive/29>
こちらの「幽」にて『怪惑の窓』です。近々アップしたいと思います。


鏡の向こう側


随分昔の話である。
最早それが、何時の時分であったかは思い出せない。思い出す気も無い。
しかし、その時に感じた恐怖は時折私の精神を酷く不安定なものにし、ぎしぎしと苛む。


いつの季節であったかも定かではないが、大変寝苦しい日だったのは覚えている。
鈍い汗の出るようなか、底冷えするようなかは分からないが、とにかく私は夜中にふと目を覚ました。
私のマンションほ一本の長い廊下を基点とした間取りになっており、洗面所と厠は隣り合わせである。
夜に目を覚ました場合は大抵そうであるが、私も例に漏れず、尿意を感じていた。
こういう時に限って、昼間に読んだ怪談本や友人との談笑で触れた都市伝説の類が脳裏を過ぎる。
しかし逼迫した現状況、何れは起き上がらなくてはならない。
私は早々に観念し、冷たい床へ足を下ろした。

家の軋みや車のネオンに恐々としつつ、私は一仕事を終え洗面所へと向かった。
何処の家も大体そうであろうが、洗面所には大きな鏡が据え付けてある。
私はザブザブとわざと大きな音を立てながら手を洗った。
何故かは分からない。多分、気配を感じたのだろう。ふと、私は鏡に目を遣った、
すると背後には鬼の形相の女の姿が―――という事はなく、鏡は鏡らしく、疲れた私の顔を大人しく映していた。

幽霊の正体見たり枯れ芒。何事も、大体そんなものだろう。

いい年をして子供のように闇を恐がるなんて。
私は苦笑した。つられたように、鏡の中の私も引き攣った笑みを浮かべる。
鏡は変哲の無い私を映し、私もまた大人しく鏡に映されていた。
左手をそっと上げ、鏡の中の私の頬に触れる。冷たく滑らかな感触。
カツンと、手につけた時計が冷涼な音を響かせた。

 
今、何時だろうか。私は唐突に思った。
カチカチカチと、時計の秒針が寂寞を誘う声をあげて泣いている。
文字盤の無い腕時計を見遣る、時刻は九時。九時。
寝たのは確か十一時、パソコンのデジタル時計を確認したはずだ。記憶にある。
大方時計が故障したのだろう。電池をいつ換えたのかも覚えていない。
私は厚かましくも正確な間隔で時を刻む時計を外そうと、もう一度右手を挙げた。

―――待て。おかしい。
何故、時計が右腕についているのだろう。
右利きの私は普段時計を左につけているのだ。それなのに、今は。
カチカチカチカチ。
時計の音が圧力をかける。嫌な汗が私の背中を濡らした。
まだ夢を見ているのかもしれない。家の軋む音がやけに大きく響く。歯軋りの音に似ている。
ふと、気が付いた事があった。箪笥の置き場所が逆だ。ドアノブも左側に、蝶番は右側に。
反転しているのだ。まるで、鏡に映るかのように。
一歩、踏み出した。右手を上げ、鏡の中の自分の頬に触れる。
冷たい。まるで、世界が存在しないかのような温度だった。
掌の熱が行き交う。今の時刻は、きっと。
午前三時。


目覚めた時は、全てが元の状態に戻っていた。
私の時計はいつものように左手首についているし、時刻は午前七時を指している。
洗面所で目を覚ました私は鈍痛のする肩を揉み解しながら、昨夜見た悪夢を思い返していた。
丑三つ時に見たあれは、果たして現実だったのだろうか。
家の軋む音がする。マンションの下を、トラックが通った。それはもう、いつもの朝だった。


あの日のことを思い返してみると、いつも妙な心持ちになる。
私は確かにあの夜、鏡の向こうにもう一人の私を見たのだ。同時に、鏡の向こう側の私も、私を見詰め返していた。
非現実へと通じる穴は、何処に開いているのかは分からない。
一度落ちてしまえば、何処までも落ち続けるしかないのだ。今も、私はまだ非日常の中にいる。
あの時、意識が暗転する直前、私は鏡の中の私自身に触れた。確かに触れたのだ。
今のこの日常は、きっともう一つの鏡の世界。少しだけ全てが歪んで見える。鏡は矛盾を抱いている。
合わせ鏡の向こう側の向こう側が、今の私の世界だ。少し歪な、冷たい銀の世界。
私は無情に時を刻み続ける腕時計を外すと、そっと右腕へと嵌めた。
帰る場所には扉がないのだ。




陽炎の廃墟


今日という日は、あまりにも夏らしい日だった。街路樹は深緑に燃えているし、空も青色に茹っていた。
冷房を入れるのも億劫で、扇風機を自分自身に向けたままごろりと万年床に寝転ぶ。
何もすることが無い。涼しい図書館も市営プールも休みだった。
だらだらと時間を浪費するのは心地よいが、何か大切なことを忘れているような気がして、心に一瞬、形容し難い焦燥が走る。

此処で寝ている間に何かしなければいけないのではないだろうか。

今から必死に勉強すれば、きっと医学部に編入も出来るだろう。将来は安泰だ。医者だけじゃない、弁護士、宇宙飛行士、大学教授。そうだ。映画を沢山観て教養をつけなければいけないし、確かまだ読んでいない本も沢山あった。トルストイ、ドストエフスキー、チェスタトン、ダヌンツィオ 、ラーゲルレーブ、小川未明、安倍公房、中井英夫・・・・・・。


気が付いたら空の色は変わり、美しいグラデーションを描いていた。
昔読んだ色彩の本に書かれていた水浅葱色、藤鼠色、萱草色によく似ていた。一部は既に鉄紺だった。日本の伝統色の中で、このような夕暮れの空を紅掛空色と言ったらしい。紅掛空。ただ純粋に、美しい名前だと思った。
朝から何も食べていなかった。寝起きなので、腹が減ったかどうかも分からない。恐らくは減っている筈だろうが、特に気にならなかった。
外の風は、最早秋と言っても良いくらい、透明で心地よかった。うっすら肌寒くもあった。
ふと、出掛けようという気が湧いた。いつもの事だが、頭に何か浮かんだら行動せずにはいられない。
ジャージを脱ぎ、ジーンズを穿いた。足元にはいつものスニーカー。千円札二枚とデジタルカメラ。携帯は置いてきた。



空は危ない均衡を保っていた。一分、一秒。須臾の間にその表情を変えていく。早くも一番星が、控えめに灯っている。
立ち並ぶ住宅、遠くに聞こえる選挙の街宣。とにかくゆっくりと歩きたかった。近くにある無人駅へ歩みを進める。途中、部活帰りと思しき高校生の集団と数回すれ違った。
無人駅はひっそりと押し黙っていた。午後六時、都会では必至の帰宅ラッシュも此処では凡そ無縁である。随分昔に観た『千と千尋の神隠し』の沼の底という駅によく似ている。薄い白熱灯が、蝉のようにジジジと鳴きながら灯っているだけだ。駅の脇の大きな道は、自然公園に続いている。利用者の増加を狙って舗装されたこの道だが、夕闇を裂くような前照灯の気配はないようだ。薄赤く、薄青く沈んでいる。傍らに建てられた介護施設の橙色の光が、私の進むべき道の先を照らしているだけだ。

自然公園への道を歩む途中に、小さな脇道がある。目印は道の端で控えめに鎮座している道祖神だが、風化して文字を読むことは出来ない。脇道に逸れると、荒れ放題の畑が出てくる。アキメヒシバ、チガヤ、カゼクセ、ノゲシ、イヌガラシ。お馴染の雑草たちが、忘れ去られた畑への侵入を拒んでいた。雑草たちの中に、円状の広場がある。そこには壊れたテレビやラジカセ、ビデオデッキ、小型の冷蔵庫が横たわっていた。忘れ去られた、英雄たちの成れの果てである。雑草たちは、心配そうに頭を垂れ覗き込んでいた。そこだけ時間が止まっていた。彼等の目の光は、随分と昔に失せてしまったようだ。

蝙蝠が風に揺れながら舞っている。家電達の墓標の向こうは、更に忘れられた世界が広がっている。
かつては食肉工場だった場所。今からおよそ十五年も前のことだ。一時は木材チップ製造の工場へ姿を変えていたのだが、その事業も半ばで頓挫したのだろう。今は咳一つ漏らさず、厳かに沈黙しているばかりだ。この場所は私にとって最初の廃墟であるし、おそらく最後の廃墟にも成りえる場所だ。それほどまでに近い。地理的にも、そして私自身にも。壁には恐らく近所に住まう悪童達の仕業だろうか、ぽっかりと無様な穴が開いていた。「不法侵入者は通報します」。そう、白いポスターに警告の文字が躍っている。通報される筈がない。此処は誰にも見つからない場所なんだ。そしてこの廃墟自身も、死んだような目で自らを侵す無粋な輩達を受け入れるしかない。撫でるように冷たい風が吹いた。全てこの穴に集約されている。私はゆっくりと腰を屈め、吸い込まれように廃墟の中へと足を踏み入れた。

中にあるのは決まった光景だ。鈍色の世界を彩るのは相変わらず色の抜けた数種の雑草と、放たれた魂のように綿毛を飛ばす芒の白だけである。工場の扉は施錠されていなかった。中に入る。夕闇に光るのは鍵状に折れた鉄の塊。肋骨を引っ掛けて、天井から肉を吊るしたのだろう。数十本、吹いた風に揺れている。ギイイ、ギイイ。聞こえる音は、宛ら獣達の断末魔だ。いや、あながち間違いではないのかもしれない。目の端に、供養搭が映る。「畜霊碑」。此処で皆が死んだのだ。死ぬために生まれ、そしてその役目を全うした。生まれながらにその生殺与奪は我々の手にあった。だからといって、誰かが悪いわけでもない。私は供養搭に一抹の祈りを捧げるでもなく、一瞥するだけで終わらせた。この工場に漂う冷たい死臭。暗い闇と相俟って、一層強くなっていく。私はそっと加工室から出ると、その横に備え付けられた洗浄室へと続く階段を昇った。
ギッ、ギッ。小さな、仄暗い音が響く。まるで無抵抗な小動物を踏みつけているような気持ちになった。足元を見ても、錆びた階段があるだけだ。赤茶けた死の世界。唐突に、そんな言葉が頭に浮かんだ。階段は屋上の貯水タンクへと通じている。工場の上、更にまた階段。貯水タンクが見える。それに続く梯子を昇りきれば、夏独特の空が優しく出迎えてくれた。夕刻の空。舞う蝙蝠は闇色。吹く風は夏虫色。広がる空は藤鼠、鳩羽、薄葡萄。囁く木々、瞬く星は嘘のように白かった。地上までは十五メートル ほどしかないが、あの蝙蝠のように腕を広げれば簡単に、そのちっぽけな命の灯火は消えてしまうだろう。私はあの小さな哺乳類にすら劣っているのだ。眼下に映るのは彼の畜霊碑。この崩れゆく世界で腐れば、あそこを塒とするのだろうか。唐突に、そんな事を考えた。悪くないかもしれない。貯水タンクのプラスチックは腐食して、深淵のような暗い穴が開いている。目を凝らせば、中には小さな白い骨が見える。鳩でも落ちたのだろうか。羽があっても飛び立てないのだ。妙に物悲しくなって、私は再び錆びた梯子をギイギイ言わせた。

工場の隣には廃屋がある。私は工場の帰りに必ず此処へ立ち寄るようにしている。唯一、由来を知る廃墟だった。そこは元々、私の友人の家であった。ある日その友人は朝顔が萎むように消え、その家族も朝顔が種を弾くように出て行ってしまった。きっかけは分かっていた 。全ては花のようだった。この家の歴史は八年前に途絶えている。そこからは全て、空白だった。友人が育てていたミニトマトの苗木。今その跡を残すのは、泥の隙間からうっすらと青さが見える小さなプランターだけである。友人と遊んだ家庭菜園。今は毒々しさを感じるほど好き放題に伸びたアロエを除いて、その面影を残すものは無い。共に過ごした、語らった家の中は荒廃し、至るところに蜘蛛が糸を這わす。畳みは腐食し、天蓋は剥がれ、板の間は所々抜け落ちていた。八年間、私以外で誰にも省みられなかったこの屋敷は、静かに朽ちていた。遠い未来に死を決定付けられた、かつて或る平凡な家族の生活拠点だった場所は、ゆっくりと土へ還ろうとしている。でもそれは運命だ。死は平凡で、残酷で、迂遠で、耽美で、虚無である。

水の流れる音がした。廃墟は着々と遠ざかりながらも、まだ寂しそうに此方を見ている。
誰しも一人で生きてはいけないという簡単な事を、私は忘れがちだ。どんなに重宝され、愛されたものでも、一度役目を終えた瞬間にそれを省みられる事は無くなる 。そのまま朽ちて土に帰すを待つか、誰かの気紛れで灰と化すかの何れかだ。無機物は有機物なんかより、万倍も無垢で従順である。しかしその表情には、限りない絶望を秘めているのかもしれない。何十、何百の絶望を回ってきた。そして絶望の中には、必ずかつての希望があった。絶対的な何かを求めながら、廃墟では常にその真逆のものと出会っている。随分と被虐的な趣味だが、それこそが彼等に惹き付けられる最大の要因なのかもしれない。
世界は闇色に沈んだ。廃墟も、今は一様に黒色だ。水浅葱色でも藤鼠色でも萱草色でも鉄紺でも紅掛空色でも橙色でも白色でも鈍色でも赤茶色でも夏虫色でも鳩羽色でも薄葡萄色でも無く。ただ、心だけはセピア色のままだった。さあ、家に帰ろうか。



Lunatic



「人の心は移ろいやすいですが、月の光は古より変わりません。」

彼はそう言って、私の目を真っ直ぐと見詰めた。
目線はそんなに変わらないけれど、その強い目の光はとても印象的だった。

「ただ、月になりたいです。」

美しい言葉を紡ぐ人が好きだ。私の好きな人は、愛の証として言葉を紡ぐ。



私達を結びつけたのは「月」だった。
同じ文学の徒として、志すものは一緒である。「月」は二人の共通のテーマだ。

「遠く離れて逢いたいときは 月が鏡となればよい」

常盤炭坑節の文句を口ずさめば、彼は小さく笑った。

「乱歩ですか」
「ええ、目羅博士です」

目羅博士では月光が人を殺す装置となる。
ルナティックという言葉は、狂気を意味する。勿論、ルナは月から来ている。

「月が鏡となればよい」

私の呟きに、彼はゆっくり頷き手を伸ばした。

「お互い、忙しいですからね」
「ええ」
「そういう時は、月でも見ましょうか」

そうすれば寂しくないでしょう。

「新月の日は、一緒に過ごせばいい」

果ての無いような、冬の空だった。瞬く無数の星、架かる青い三日月。吐く息は白く色づき、足元では落ち葉が軽く優しい音をたてて舞った。

「今夜は月が綺麗ですね」


Driver's blues


一日に一回。布団に入れば必ず、妙な音が微かに聴こえた。キュルリ、ガチャン。時計の短針が零時を周り、空気が蒼色に色付きだすと、何処かで鍵の掛かる音がするのだ。鈍く錆びた、悲鳴のような音。何故かは分からないが、ここ一月くらいは毎晩欠かさず聴こえている。

私のベッドの横には窓があり、唐突に鳴る「キュルリ」は、どうかするとそこから聴こえてくるようにも思える。正体を確かめようと目を開けてみても、見えるのは随分昔に買ったブリキの車の置物だけで、まるでヤモリが張り付いたように身体を預けるベッド上の視線からでは、到底犯人を探る事が出来ない。大方隣接する家の者が夜遅くにでも帰ってくるのだろう。右は大学生がいる家庭だし、向かいは若いサラリーマンがいる新婚夫婦、左は仕出し弁当屋で後ろはアパート。わざわざ起き上がるのは億劫だった。

しかし「キュルリ」は休む事なく続き、正月三が日を経て現在に至る。今日も特に支障が無ければその錠前を無事に下ろすのだろう。見知らぬ番人が、欠かさず扉を守るのだ。依然として正体を明かさぬまま。
果たして番人は誰なのだろう。普段から無頓着な性格だが、何故かその疑問が唐突に頭を過ぎった。うんと手を伸ばし、指先で窓を少し開ける。ザアッという欅の葉擦れ、遠くに走るタイヤの軋み。私は布団に入ると、薄目を開けて窓の方を見上げ待った。
いずれ聴こえるだろう、鍵を持った者の足音が。少し引きずるような足音なら酔っ払いか。擦るようならば疲れた会社員、軽いようなら元気な若者。間隔が小さければ歩幅が狭い女性、違うならば男性。私は気狂いしそうな静寂の中で、鍵の主を待った。ただ待った。
それは唐突にやって来た。
キュルリ、
足音はない。それどころか、窓を開けたのに、音の大きさには全く変化が無かったのだ。では、この怪音は一体何処から?純粋な疑問は解決と共に、恐怖へ変わった。
ゆっくりと首を動かす。ブリキの車が小さく震えている。まるで呼吸をするようにゆっくりと、エンジンを掛けていた。
ガチャン。
錆び付いた音だった。怪音は窓の外側ではなく内側で鳴っていた。ブリキ細工の運転手がぎこちない動作で首をこちらに向ける。黒く落ちた眼窩が私を捕らえた。
「乗りますか。」
落ち着いた、穏やかな声が響く。五文字の言葉が頭を回る。日常が非日常へ変わる穴。
私はまるで誤魔化すように、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。










違う違う。脳が勝手な解釈をしてしまったようだ。運転手の呟いた五文字は、私が聴こえたものとは全く違うものだった。



「見ましたね。」



本当は、最初から分かっていたのに。こうなるってね。



キュルリ、ガチャン。

First Contact