昨日、解放村に行ってきました。

最近、私は、月に一回ソウルの中を探検するツアーをしていまして、その定期ツアーとして今回は梨泰院界隈を回ったんです。

毎回、このツアーの模様は「エナツアーレポート」と題して、私が記事を書かせてもらっている「得ジョイ(tokujoy.com.)」という観光情報サイトに連載されてもらっっています。

ので、いつもならここにはツアーの模様は書かないのですが…。

昨日のツアーで、体験したことの中で、記憶の彼方に葬りたくないけれども紙面の都合で「エナツアーレポート」には書くことができない出来事があったので、ここに載せることにしました。

 

 

まずは「解放村(ヘバンチョン)」という場所の説明をします。
住所としてはソウル市龍山区龍山2洞を中心に1洞の一部も含まれる場所です。
もっとわかりやすく言うと、観光地・梨泰院の地図の左うえ、梨泰院ストリートの左端から南山に向かって入っていく道の左側の山側一帯です。
龍山という場所は日本統治時代、大きな軍の部隊があって、このあたりも第20師団という部隊が駐留していたらしく、解放村一帯の再西端にあたる淑大入口の近くには、当時の居住日本人ための公設市場などが残っています。
 1945年、日本からの独立ののち日本軍と日本人居住者が撤退したあと、朝鮮戦争が勃発。その後、元日本軍基地は一応米軍の管轄となるものの、38度線より北に故郷があるものの分断されたため生まれ故郷に帰ることができなくなった人々が、南山のふもと、傾斜のきつい、米軍の管理が行き届かず事実上放置に近かったこの斜面にバラックを建てて住み出しました。
 貧しいながら、望郷の思いを持ちながらも新しい時代への希望を込めてここを「解放村」と呼び、心のよりどころにしたカトリック教会を「新興教会」中心となった市場を「新興市場」と名付けて新しい生活を始めました。




 その、解放村の「新興市場」での話です。市場ができてかれこれ60年が経つそうです。市場としては割と広く大きな三角形を描く新興市場はかつてぶつからずには歩けないほどの人でにぎわっていたといいます。ここで商いをするのは、越南人と呼ばれるもともとは今の北朝鮮側に生まれ、日本統治下またその後の朝鮮戦争の頃に南側に移動してきたものの分断国家の設立で生まれ故郷に帰れなくなった人々なった人々。おそらく、当時の買い物客たちも同じような背景の人だったのでしょう。
 しかし、今は、この世代の人たちも高齢になり一人また一人と店をたたみ、お客さんとして訪れた人々も移転や高齢化、スーパーの普及や通販の発達などの時代の波飲まれて閑散とした市場になってしまいました。それでも、日用雑貨や生鮮食品などを商うおばあちゃん・おじいちゃんが数名雑談をしたり、テレビを見たりしながら店番をしていました。


 昨日は、そんな市場の片隅で3人のおばあちゃんが雑談をしているのに出会いました。店先の展示台とも縁側ともいえるような台に腰かけて話しているおばあちゃん。わたしたちは写真を撮りながらちょうどそのおばあちゃんたちが見える角を通りかかったのです。

「何してるの?」
一人のおばあちゃんが話しかけてきました。写真撮っちゃダメってことかな?ドキドキしながら近づいて
「買い物じゃなくて、写真を撮りに来たの。韓国のいろんなところを見たいんです。わたしたちは外国人の留学生で今日は学校が休みだから見に来ました。」
と答えると
「そうかそうか。ここに座りなさい」
とおばあちゃん。孫にコーヒーを持ってくるように言いつけ、わたしたちは縁台?に座らされました。一緒にいたおばあちゃんの一人がわたしたちが日本人だということに気づきました。まずかったかな…。少し心配にもなりましたが、逆に歓迎してくれます。そしておばあちゃんの話が始まりました。

 

 

 

 

 

 

 

わたしはね、今の北朝鮮側で生まれたの。12歳のころ、朝鮮戦争の戦火を避けて家族で南へ南へ避難してきたの。途中でお母さんが亡くなってしまって。お父さんが私たち兄弟4人を連れて逃げてきたんだよ。もっともっと南へ行かなきゃならなくて、当時韓国政府側はプサンまで追い詰められていたでしょう。わたしたちも釜山に向かったの。けれども、釜山は同じように逃げてきた人たちで溢れかえっていて、上陸することができなかった。それで「巨済島へ行け」と言われて、釜山の近くの韓国で2番目に大きい島巨済島に向かったの。でも、私たちはほとんど最終便に近い感じの便で南に逃げてきたグループだったので、巨済島に着いたら、避難民のために開放されていた小学校の教室のほうは早くに避難していた人でいっぱいで、私たちは校庭で寝泊まりしなきゃらなかったんだよ。

 戦争が終わって、食べるために働かなきゃならないじゃない。当時釜山にいたから釜山と下関を行き来して、荷物を運ぶ仕事をすることになったんだ。何往復もしたよ。その時、たくさんの日本人と接したよ。わたしは小学校2年生までは植民地時代だったから日本語で教育を受けたの。もうほとんど日本語を忘れてしまったけどね。そして、仕事でたくさんの日本人に会ったよ。 日本人のいいところはとても謙虚なところだよね。お金払って船に乗っているときも「お金払った私が何をしても当然の権利だ」と言わんばかりの傍若無人な言動は大抵韓国人の客のほうだった。日本で仕事をしていたある日、とてもトイレに行きたくなって、トイレの場所を聞いたら、わざわざそこまで連れて行ってくれて、身振り手振りで案内してくれた。本当にいい人だった。
 そんなことがいろいろあってから、私はソウルに移って、この解放村に住んでいるんだけどね。今、日本と韓国と政治レベルでは難しいことがたくさんあるじゃない。けれど、どちらか一方がすべて悪いわけじゃない。どちらも、良くなかったこと、反省すべきことがある。だけど、それは、自分で意識して、反省すればいいことだよ。相手を攻撃する道具にしちゃだめだよ。そして、そのうえで、個人と個人がもっとよく知り合って、仲良くなっていくことが大事だと思う。わたしはもう年をとってしまって次の世代にバトンタッチするけど、あなたたちの世代が今より少し相互に仲良くなれば、あなたたちの子どもの世代はさらにもう一歩仲良くなれるから。
 
 ここには、いろんな人が写真を撮りに来るんだよ。新興市場はできて60年になる。わたしみたいに北に帰れなくなった人たちがここに集まって住んでいるんだ。前は、この市場は本当ににぎわっていたんだよ。そこに見える通り、あるでしょ?あれは、もともとは南山から流れてくる沢だったの。貧しいし、故郷に帰れない私たちは水道もガスもないこの山肌にバラックを建てて、沢の水か沢を下って下の平地に水を汲みに行ってこの斜面のバラックで生活したんだよ。そんな市場をみんな写真撮りに来るけど、今日、あなたたちが日本からの留学生と聞いて、話したかったんだ。
 
 


 おばあちゃんの話、心に残りました。昨日は、私のほかに交換留学で来ている大学生と語学留学のために最近来たばかりでまだ韓国語がほとんどわからない留学生の3人でこの話を聞いたのですが、ほとんど聞き取れないはずの語学留学生が途中から目を真っ赤にさせて泣き出してしまい、最後はそのおばあちゃんにハグされていました。

 そのあと、お茶をしながら、三人でこの話を反芻し、元慰安婦のおばあちゃんの話を聞いたことがあるという交換留学生からその時の話も教えてもらって、韓国に対する理解がさらに深まったのを感じました。


長文のブログ、最後まで読んでくださりありがとうございました