河童のクゥと夏休み | Eisai i nyxta me ta ainigmata

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つぶあんこは電気ショックで死ぬ夢を見るのか。


今日、先週公開と間違えて東劇に行っては
結局フライングして半分徒労としてしまった
「河童のクゥと夏休み」を観に再び東劇に行ってきました。
http://www.kappa-coo.com/
(ENTERで入ると音がでますよ)

銀座の街は浴衣を着ている女性が何気に多く
(わしの住んでいる街でも今夜は花火大会だ)
「浴衣で可愛さ5割増し」な女の子たちに
少しだけエヘヘな気持ちにさせてくれます。
東劇に行く前今日もアップルストアに行って
mixi観たり映画情報チェックしたりしたのですが
浴衣カップルinアップルストアってのも
「なんかイイ感じ」なオーラがカップルから出ています。

だからといってわしの身の回りにいる訳がないんだけどな。

東劇、わしは全く気付かなかったのですが
マッサージチェアが6台もあるんですね。
銀座界隈の映画館は肩こり持ちにも優しいのか?

初日の2回目の上映だったせいか
初日プレゼントで「キューリのキューちゃん」をもらいました。
わしも前評判から結構期待していたし
客も結構入るんじゃないの?と思っていたのですが
東劇というキャパの広さと原恵一という監督が
まだまだ一般には知名度が低いせいでしょうか。

客の入りが初日なのに1割も満たなかったよ・・・

「これ、すごくイイ映画なのに。」

最初に言うとこの一言に尽きます。
そして、その「イイ映画」さは大人に向けられています。
逆に言うとコドモにはちっとも楽しくない映画かもしれません。

映画の中では「人間の悪い性と醜さ、愚かさ」が
徹頭徹尾描かれています。
河童のクゥを拾う主人公の康一の家族でさえ
クゥという異質なものと接することによって生み出される
「人の醜さ」に染まってしまいます。

この映画の中でいちばん大人なのは
「幼い河童のクゥ」なのです。

クゥという異質なものによって康一の家族も
そして河童という存在に物珍しさや「祭り状態」になる
人間たちの愚かさを描いているのですが
(中盤以降のメディアに露出せざるをえない状況から特に)
クゥの「元々生きていた時代と異質である現代」に対し
その「異質さ」を察し、共存しているペットの犬とともに

動物にとって(それは弱者、異質である人間とも言える)
「共存するということはどういう事なのか」を
弱者の目線から訴えかけています。

人間と言う物は存在証明として
必然的に支配関係を作ろうとしている。
弱者はそれを事実として、孤独と向き合う事で逃れようとする。
または強者との利害を見出すことで
その関係という意識を軽いものにしようとしている。

人間の心の弱さはひとたび力を手に入れると
虚栄に走りもする。利益を得ようとする。
勝ち組という側に乗ろうと必死になる。

それは器用に生きるという事と同一にもなりうるもの。
「器用に生きる事」と「汚く生きる事」は紙一重。

康一の家族は平凡かもしれないけどおそらく不器用な家族です。
その康一の家族に、クゥによってちょっとだけ
救いのある結果が提示されています。

確かにクゥという存在は異質であった。
しかし康一の家族はそれに溺れることをしなかった。
それはクゥや飼い犬の「おっさん」によって
何故溺れなかったかと言う事を教えてくれます。

「河童は相撲が強い」という事もイイ複線になっています。
これにより、康一が「汚く生きる様」に落ちる事を
結果として救っているのに気付かされたとき
自分の愚かさを同時に感じてしまいました。

わしも犬を飼っているのですが、愛情の注ぎ方が
「愚かな人間の側」の愛情の注ぎ方の側にいるから。

そして精神的な強者よりも弱者な人間の方が
人の心をずっと深くまで客観的に見ているんだなあ。

そんな事を考えずにいられない「大人なアニメ」でした。
コドモには、苦すぎるかもしれない
ちょっとほろ苦いチョコレートを食べたような
そんな上質なアニメーションです。
絵柄も「萌える」絵柄ではないし
アニメーションという体をなしているけれど
大人に観てもらいたい、いい映画だと思いますよ。

「これ、すごくイイ映画だから。」

観客の入りが初日から1割ってのは
この映画を観たわしからしたら、勘弁よ。