前回書いたゆめ風基金のシンポジウムの報告の続きです。

基調講演の後は、

・社会福祉法人石巻祥心会 鈴木徳和さん

・社会福祉法人 仙台市障害者福祉協会 阿部一彦さん

・熊本学園大学水俣学研究センター 吉村千恵さん

・ヒューマンネットワーク熊本 植田洋平さん

が登壇してのシンポジウムでした。

 

【吉村さんの話】

熊本地震では一般の避難所も十分に機能せず、福祉避難所はそもそもどこにあるかさえ知らない人が多いなど、課題が大きかったようです。そういう中でホテルなどが避難スペースを開放したケースもあったようですが、そんな力を発揮したひとつが熊本学園大学でした。障害のある方やご高齢の方を多く避難者として受け入れたのです。

 

 今回お話ししてくださった吉村さんは熊本学園大学の教員ですが、ご自身も熊本学園大学出身。大学に入学してヒューマンネットワーク熊本の障害のある人たちと知り合い、障害者運動を学んできたそうです。そんな中でタイの障害のある人たちと出会い、長期滞在して障害者運動の調査をしていたそうですが、その頃、タイでは大洪水が起き、洪水被害の中に障害のある人が取り残されてしまうという課題が見えてきました。吉村さんはそういう場面を目の当たりにした経験があるために、熊本学園大学に教員として戻った後も、「もし災害が起きたら大学で何ができるのか」と想定した訓練をしたり、災害と障害者について学生たちと考える機会を持っていたということでした。 

 

熊本学園大学自体が30年ほど前に障害のある学生を受け入れるというところから始まり、少しずつバリアフリー化を進めてきたこと、ヒューマンネットワーク熊本とのつながりができて障害のある当事者を講師に招いた講習をしていたこと、障害のある人も何か必要な時には大学施設を利用していたということ…そんな相互交流ができていたため、災害時の迅速な対応ができたようです。 

そういう積み重ねがあったため、熊本地震のときに避難してきた障害のある人は大学の人と知り合いであることが多く、その人にとってどんな配慮が必要かもスムーズに伝わった面があったそうですが、避難してきた高齢の人は大学にはなじみのない人も多かったそう。

 

そこで感じた課題は、ふだんだったら要支援くらいの介護度でなんとか自宅での生活を維持してきた高齢者が災害によってとても不安定な状態に置かれたということです。

トイレに頻繁に行かずに済むよう水分を我慢する、トイレに起きた時の転倒の心配、寒い日があったり冷たいものしか食べられないことが続くと体調が悪くなってきて認知症の症状が出てくる、など。不安定な状況になってきた高齢者については、担当のケアマネジャーを探し出し、早急に生活を立て直すサポートもしてきたそうです。

 

大学の他、ホテルなど宿泊機能を持つある程度スペースのある施設などが普段から災害時を想定して地域の高齢者や障害者と顔の見える関係を作っておくことができたら、いざという時の支え合いの拠点として役立つのではと感じたという話でした。

 

 【植田さんの話】

植田さんはヒューマンネットワーク熊本の事務局長をされている障害のある当事者。

 

熊本地震では1回目の揺れの後、植田さん自身近くの避難所に行って、ほかに障害者が来ているかなど見て回ったけれども、いなかったそう。

また、福祉避難所として指定されていた半数ほどしか開かなかったし、福祉避難所に行ったとしても「車いすが邪魔だな」と言われたという声もあり、いづらさを感じた人もいたそうです。

 

(ちなみに11月に区議会の視察で熊本市に行った時に市役所の人に「福祉避難所は何か所開いて何人が利用したのですか」と聞いたら「避難所の人の出入りを把握する台帳の整備ができたのが7月になってやっとだったので、それ以前の正確な状況はわからない。福祉避難所は開設しても利用者ゼロという場合もあるし、把握しきれていない」と言われました。個々の行政職員が実感してる部分はあっても、断片的で、総合して行政のまとめとして公表できる状況にない、ということかなと思いました。だから、その点においては私たちは、当事者のつかんでいる情報から知るしかないのだと思います。)

 

近所の避難場所に障害のある人も不安なく避難できる体制が必要だと感じたということでした。また、今回の場合大学が受け入れたので、学生さんたちが若い力で手伝ってくれたり、お話し相手になってくれてよかったということもおっしゃっていました。 

 

【仙台市の阿部さん】

仙台市では震災前に福祉避難所の協定はできていたけれども、まだ十分な体制までは行っていなかったそうです。

2006年に障害者計画を作る際に、障害者団体から「計画の中に福祉避難所のことを入れたい」と声をあげて交渉を始めたという経緯があったそうなのですが、その時にはすぐに計画化はされず、計画化に向けて進めている最中に被災したそうです。

被災当時、協定を結んでいた施設は52施設。結局、障害者計画に福祉避難所が位置づけられたのは震災後の2012年だそうです。福祉避難所は開いても、本当なら仙台市内にいるはずの要援護者から見れば利用した人は少なかったようです。

 

ちなみに、仙台市の人口は107万くらいで3月11日~12日にかけての避難者は10万6000人ほど。

52か所協定を結んでいた福祉避難所のうち26か所が開設し233人を受け入れ。

協定を結んでいなかった14施設が開設して55人を受け入れたというのが実態だそうです。

 

 福祉避難所に入る経緯は、一般の避難所を巡回する保健師さんが相談を受ける中で必要性を見極めて移行につなげたそう。つまりは障害のある人やご高齢の人が一般の避難所にも避難できていなければ、福祉避難所にはつながらなかったのです。

また、被災前は、「医療的ケアが必要な人は病院に避難してもらう」というルールを作っていたのですが、実際にはうまく機能せず、医療的ケアを要する人も福祉避難所に避難してきて、対応に悩んだこともあったそうです。

そういう実態をふまえ、要援護者を名簿に登録するだけではなく、一人一人がどんな障害特性を持ち、どういう支援が必要か、どういう経路でどこに避難するのかという個別計画が必要であるということを感じたということでした。 

 

阿部さんの法人では3施設を福祉避難所として開設したそうですが、長く避難所運営が続くと、もともとの福祉施設の利用者がその施設を利用できないという問題も生じるので、4月に入ると福祉避難所は1か所に集約して運営してきたそうです。

被災当初は近所の人たちが避難してきていた時もあったそうですが、「自分たちがここで避難していると、障害のある人が使えないから、自分たちは一般の避難所に移動しよう」と言ってくれた人がいて、障害者の受け入れ態勢を作ることができたという面もあったということでした。災害時に障害のある人への配慮が必要であるということを近所の人が知っていてくれることも重要だというお話です。

 

【石巻の鈴木さんのお話

鈴木さんの法人はもともと石巻市と福祉避難所の協定を結んでいたわけではなかったけれども、実際には福祉避難所になったそうです。

福祉避難所としての指定があったわけでもない中で開設できたのは、理事長が、「新しいものをつかむためには、今持っているものは必要な人に渡せ」という考え方の人だったから、法人として覚悟できたそうです。

震災後、法人の施設の利用者は内陸の施設へ避難して、そのあとにあいていた入所施設があったそうです。そこで、一般の避難所にいる障害のある人など福祉避難所な必要と思われる人に声をかけて開設したのが3月13日だったということでした。

 

福祉避難所としてやっていく中で課題として見えたことは、ふだん介護の仕事をしている人が相談を受ける仕事もしなければならないなど、ふだんとは専門性の違う業務もこなさなければならないということ、職員が長時間勤務しなければならない中でその業務の位置づけは何なのか―仕事として考えるべきなのかボランティアなのか、時間外労働なのか社会的使命としてやっているのか、家族を置いて福祉避難所に関わる意味など―で組織として悩むところも多かったようです。

 

こうした課題を解決するためには、やはり災害が起きていないときに組織として災害時のあり方や各職員の役割分担などを話し合っておくことが大切であるということでした。

備えを考えるひとつの方法として、「もし明日災害が起きたら」という未来のことではなく、「もし昨晩起こっていたら」と考えてみると具体的な課題が見えてくるという提案もありました。

先のことだと備えられることがいろいろ思い浮かぶけれど、昨晩のことだったら「その時間はもうお酒を飲んでしまっていたから、実際行動に移れるのは翌朝からになってしまう」といった課題が見えてくるということです。