◆)多苗的要約-これってどんな本?

思想書ですな。

なぜ人類は悲惨や残酷の問題を抱えたままなのか。悲劇はなぜ繰り返すのか
そしてどうすれば変わることができるのかについて語られています。

同じ事をいろんな角度から語ってくれます。

それはつまり、一言でこれが骨子だなんて言えるようなものではなく
行間を読んで自分で考える必要がある本だということなのだと思います。

◆)本書引用p255~381
1.人は、精神を条件付けるような結論、信念、教義から出発してはならない。自由に観察し、学び、働き、行動する精神から出発すべきである。そのような精神は慈悲心のある精神である。

2.信仰の中には安心がある。政治的、宗教的な特定の教義と自己を同一視することの中には、安心がある。我々は歳をとったら、過ぎ去ったことの思い出、過去の経験、体験した会いなどの中に、安心や幸福を見出す。そして過去に執着する。若くて陽気であれば、未来や過去のことを考えずに現在の瞬間に満足する。しかし青年期から老年期へ移るにつれて、安定していたいという欲望、安定していないという不安、つまり誰かや何かには頼れないにもかかわらず、何か安定した物にしがみつきたいという不安が出てくる。

3.ほとんどの人々は、「葛藤はなくてはならないものである。さもなければ、どんな成長もない。その葛藤こそが人生の一部だ」と言うであろう。森の中の一本の樹は、太陽に届こうと闘う。それは一種の葛藤である。あらゆる動物は葛藤の状態にある。そして人類も、知的ではあっても、それでも耐えず葛藤の状態にある。さて、そこで不満は、「なぜ私は葛藤しなければならないのだろう?」と云う。葛藤とは、比較、模倣、服従、ある様式への適応、現在から未来に書けて存在するものの修正された継続性を意味する-これらは全て葛藤の過程である。
p312

4.比較なしで生きると云うことは、途方もない重荷を取り除くと云うことである。もし比較、模倣、服従、適応、修正という重荷を取り除いたなら、その時には、あなたはあるがままとと共に残される。葛藤が生じるのはあるがままを他の何かと比較しようとする時だけ、それを変え、修正し、変革し、抑圧し、それから逃げようとする時だけである。しかし、もしあるがままに対する洞察を得たなら、その時には葛藤はやむ。

5.苦しみという問題を探求する時、我々はあらゆる人間の苦しみを探求している。と言うのも、我々の1人1人が全人類の本質を持っているからである。人は皆、心理的、内面的に、深く自分以外の人類に類似している。

6.自分は世界であり、したがって自分自身の意識を観察する時には、人類の意識を観察していることになるからである。

7.心理的には恐怖の根元はなにか?恐怖の根本は、時間ではないだろうか?その時間とは、明日あるいは将来起こるかもしれないこと、(中略)恐怖と時間の根元は思考の運動ではないだろうか?

8.記憶する必要のあるものはなにか?そして記憶する必要のないものはなにか?頭脳は始終、記憶することに従事している。したがってそこにはどんな平安も静けさもない。それに対して、何が記憶されるべきで、何が記憶されるべきでないかと云うことについての明晰さがあれば、その時には頭脳はもっと静かになる。そしてそれが瞑想の一部である。

9.もう一つの種類の学習は、これまでの知識という付属物なしに観察すること、何かを生まれて初めて、新たに見るかのように見ることである。


10.大空を観察してごらん。山々、木々、木漏れ日の美しさを観察してごらん。その観察は、記憶として貯えられたなら、次の新鮮な観察を妨げるだろう。自分の妻や友人を観察する時、その特別な人間関係の中で起こった出来事の記録という鑑賞なしに観察することができるだろうか?(中略)最も重要なことは観察することである。たいていの場合、観察者とあるがままのものである観察されるものとの間には区別がある。その観察者とは、実は記憶という過去の経験の総和である。だから、過去が観察していると云うことになる。観察者と観察されるものとの間の分裂は、葛藤の基である。

11.心理的に、なぜこのような葛藤があるのだろうか?古代から社会的にも宗教的にも、善と悪の区別があった。一体本当にこのような区別があるのだろうか、けれども、あるのはただそういう相反性のないあるがままだけだろうか?例えば怒りがこみ上げてきたとしよう。それは事実である、それはあるがままである。しかし、私は怒らないようにしようと言うのはひとつの観念であって、事実ではない。

12.非暴力の哲学の全ては、政治的にも宗教的にもゆがめられている。そこには、暴力と、それに相反するものである非暴力とがある。相反するものは、あなたが暴力を知っているから存在する。その非暴力は暴力にその根元を持っている。人は相反するものを持つことによって、なにか途方もない方法や手段によって、あるがままのものを取り除こうとする。

13.我々は、生を、時間の中で測られる運動、死に帰する運動として考えている。その地点までを、我々は継続性と呼んでいる。しかし人は、時間のものではない運動、すなわち現在を通過し、未来を修正して継続していく、過去の何かの記憶ではない運動を観察する。そこには、起こりつつあるもの全てに訣別するような精神の状態がある。起こるものすべては、入ってきて、流れ出る。一切とどまることなく、常に流れ出る。そのような精神の状態には、独自の美的感覚があり、時間的なものではない継続性がある。

14.あらゆる宗教は、古代から、死を超えるものがあるかどうか見出そうとしてきた。(中略)古代インド人たちは、生には継続性があるに違いないと云った。と言うのも、さもなければもしこの生が死で終わるだけのものなら道徳的人格を達成したり、人生においてこれほどの経験を積んだり、これほどの苦しみを味わったりする意味はどこにあるのか、と考えたからだ。-いったいそれになんの意味がある

15.人間はそれぞれ全人類の代表である。そして意識の中でその変化が起こる時、人は人類の意識の中に変化を引き起こす。死とは、人が今知っているその意識の終焉である。

16.気づくとは、自分に関する物事、自然、人々、色彩、木々、環境、社会的構造などあらゆるものに対して鋭敏であること、イキイキと敏感であることを意味する。そして、起こっていることすべてに対して外面的に気づくと同時に、内面的に起こっていることに気づくことである。気づくと云うことは、心理的に内側で起こっているものと同時に、内面的に起こっていることに気づくことである。気づくと云うことは、心理的に内側で起こっているものと同時に、外側で環境的、経済的、社会的に起こっているものに対しても鋭敏であること、知ること、観察することである。もし、外面的に起こっていることに気づかないで内面的に気づき始めたなら、その時には人はむしろ神経症的になる。しかし、もしできるだけ多く世界で起こっていることに気づき始めて、そこから内面へと向かうなら、その時には人はバランスを保っている。そうなったら、自己欺瞞という可能性はなくなる。人は、外面的に起こっていることに気づくことから初めて内面へと向かう。

17.世界が無秩序に陥っているのは、我々が1人1人が無秩序だからである。人は、自分の無秩序に気づいているのだろうか、それとも無秩序という概念を持っているだけだろうか?


他多苗付箋箇所計23箇所

『生の全体性』 J・クリシュナムルティ 1986 平河出版社



◆)引用箇所考察
1.1月8日の自我の終焉でも、そうだったが著者のこの訴えは誠に素晴らしい。自分で考えるということを始めませんか。これはもう基本ではないだろうか。

もちろん参照とすることは大いに推奨されるところではないかと思う。

しかし、もう導師を持つことはやめませんか。救い主、英雄、師匠…を持つのはやめませんか。人を敬愛はしても、尊敬するのは辞めませんか。

帰属は思考のフレームワークを生みます。

著者は、キリストやブッダからの脱却。そしてもちろん自分自身が祀られることなども望んでいない。

これで後世にクリシュナムーティが崇められたりするとそれこそ本末転倒である。

キリストやブッダだってそうだったのだ。彼ら自身は崇められることを望んでいなかった。


2.うちの親に聞かせたい。

3.神話の力を読了して以来02.06から生まれていた読書動機『人生は本当に苦しみを伴うものなのだろうか』について遂に答えが出る時が来たようです。

4.現代人は比較に苦しんでると強く思うなぁ。

7.グレートである。恐怖が時間から生まれていること。そして思考の産物であるということ。

2月7日の時間はどこで生まれるかを読めば分かるが、時間も、そして当然思考も脳がつくっていることである。

86年当時のクリシュナムーティには、この物理学の発見は多分、知らなかったと思うのだがその勘がやはり素晴らしい。

筆者は思考を止めよと訴えている。

8.怠惰な自分がいたとしよう。なぜそんなことを記憶する必要があるのかと筆者は主張する。
それを記憶したが為に「怠惰な自分を克服しよう」などという考えが生まれる。

そんなのは要らないことだと筆者は説く。

9.10.大事なのは観察だと説く筆者

11.はクリティカルヒットである。「原因と結果、善と悪…。この世界は相反するふたつのものからできている」などと当然のように語る言説は多く散見されるが果たしてそうであろうか。

己はずっと疑問視してきた。

13.断続的な継続性とでも呼ぼうか

14.努力は報われるべきだ、とかね。

   その前提は不幸だ。

16.まさに指摘される状況に最近の己は陥っていた。内面に籠もりすぎた。
バランスを欠いていた。

◆)多苗意見

どーでもいいんだけどさ、

このエントリの下につく広告がやるせないんだわ。

これはあれなんだろうな。

己のエントリに反応して、この広告が選ばれてんだろうな。

全然賛意を示せないんだけど。

『救い主で神であるイエス』
まだキリスト教やってんのかアンタは

『あなたの赤ちゃんが天才児に成長する方法』
出た。勝ち組負け組的思想。
ヒトゲノム操作ができるようになったら間違いなく優性遺伝子培養に飛びつくねアンタは

『阿蘇で温泉セカンドライフ』
なにがセカンドライフだよ。その前にまだやることあんだろが。

やれやれ。

でも、アンタら3人全部己自身なんだよね。

世界は己だからさ。

クリシュナムーティはホントにすごいね。

彼が既に死んでてよかった。

彼が生きてたら会いに征ってしまいそうだ。

死んだ人にはもう興味がないし。



期待されるのは観察だけである、と説く筆者。

異論はないです。

これから観察を楽しみたいと思います。

観察を努める、と言うとそこにはりきみが存在し、また葛藤が生まれるわけですよ。

高みを目指す。しかし飽くまで楽しんで。

苦行を積んだり、禁欲をして「これで来世で報われなくちゃ」とか
「救済されなければ」とか文句云うなら始めからやるなっつぅことですな。

1.に関して補足

瞑想や真理の探究の方法だって、さだまったノウハウなど存在しないと説く。

自分の好きなようにやれ、と。

ノウハウは必ず「これでいいのかな?」という不安と葛藤を生むのだ。

ノウハウ、教育…すべてそうだ。

それらの存在を否定するわけではない。

ただ、それに従うにしても自分の意志でもって。




さて、『人生は本当に苦しみを伴うものなのだろうか』です。

この疑問は神話の力


神話の多くが、苦しみは本質的な生の一部であって、避けて通れるものではないと言っているのですか。
キャンベル:苦しまなくても生きていける、と言っている神話には、一度も出会ったことがありませんね。神話は私たちに、苦しみにどう立ち向かい、どう耐えるか、また苦しみをどのように考えるかを語ります。しかし、苦しみがない人生があり得るとか、人生に苦しみはあるべきでないとか、そんなことは言っていません。
 ブッダは、哀しみからの解放があることを教えました。その解放とはニルヴァーナです。ニルヴァーナは、天国のような「場所」ではありません。そうではなく、そこにおいては欲望や恐怖から解放されているような、心的状態のことです。
モイヤーズ:そうなると人生は…
キャンベル:…調和の取れた、中心の定まった、肯定的なものになる。
モイヤーズ:苦しみがあっても?
キャンベル:そのとおりです。仏教とは菩薩のことをよく語りますが、菩薩とは、永遠を知りつつ、しかも自ら進んで時間のかけらである現世に身を置き、積極的に、喜びを持って、この世の哀しみに参与するもののことです。そしてこれは、単に自分が哀しみを経験するだけでなく、思いやりの心をもって他者の哀しみをも共有することを意味しています。思いやりは、動物的な我欲から人間性への心の目覚めです。思いやり(compassion)とは、元来「共に苦しむ」ということなのです。
モイヤーズ:しかし、思いやりは苦しみを許容するとはおっしゃらないでしょう?
キャンベル:もちろん思いやりは苦しみを許容しますとも。そう、苦しみこそ人生だという認識に立って。


ここから来た疑問だ。

苦しみは本質的な生の一部である。

本当にそうか?

今己、苦しくないぞ?

必ずしも伴わないと思うんだよね。

伴う必要もないしね。

大体、最低限の衣食住が確保された上で苦しんでる奴って苦しみたいから苦しんでんだよ。

苦しみからの脱却の為に神話があるなんて云ったらそれこそ宗教と同じ立ち位置だぜ。

過去の型通りに現在を生きるなんてガイドブックのまま旅をするようなもんだ。

そもそも、苦しみって必要なのか?って疑問から始めればいいんじゃないか。

やはり、己の疑問は(己的に)正しかった。

よし、次征こう。


現在49位。遂に藤沢烈の背中が見えた!
700→383→234→197→72→52→49ときてます。皆様のお陰♪
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読了後本書HP的評価(★8つが最大)★★★★★★★7

※HPとはハーベストパフォーマンス
作品に触れて得られるもの(ハーベスト)とそれにかかった時間とのバランスの指標です

なんつぅかな。

最高に素晴らしいんだけど、はじめの鼎談がきっと要らねぇのと
訳があんまりよくないので7。自我の終焉の方がよかった。

言ってることは同じだと思う。


1986年 平河出版社