(前項から続き)

真実の姿は、ときに寓話という形によって、なによりも明せきに描写されることがある。この物語りはまさにその真髄をつくもので、最高傑作のひとつであろう。 
ライオンの子供は、羊の社会のなかで育てられた。

自分の本性がライオンであることを知らず、むしろ羊のなかの一員たろうと努力している。 

だが、なにかがフィットしない。 なにかがすっきりしない。 

成長するにつれ、ほかの羊とのちがいがはっきりしてくる。 
鳴き声のトーンがちがう。 たてがみの体毛はふさふさしているが、ほかの羊のように全身が長い体毛でおおわれているわけではない。 

比較すればするほど、自分は「醜い羊の子」だと思う。 

だが、どうしようもない。 

自分が羊だと思っているうちは、あれこれ努力してみる。

そして、シシュフォスの神話のように不毛な努力のなかで、疲れ果てていくのだ。 
これはライオンと羊のたとえを使いながら、人間の本質と現実のあいだに形成されるゆがみの構造を描写している。 

寓話のなかではライオンは一頭だけだが、実際には羊はすべてライオンである。

ライオンの群れがすべて自分は羊だと思い込んで、メエーと鳴き、草を食べている姿を思い浮かべてもらいたい。 

それは、実際、奇妙な光景にちがいない。 

しかし、それが人間におこっている現実でもある。 
 

さきに、「オニオン・ピーリング・ヴィジョン」という変容のプロセスを紹介した。 

それは基本的に、今のあなたはさなぎであり、内的変容をとおして成長していくことによって、ある日「さなぎ」から脱皮して「蝶」になるという視点だ。 

そのためには、瞑想、奉仕、祈り、ハタヨガ的な肉体と呼吸の修練などのワークが必要だ。 

あなたはそのワークをとおして、より精妙で崇高な境地を達成していく。 
この視点にたいして、この寓話はもうひとつ別な視点を提示している。 

自分を羊だと思い、羊の社会に順応しようとしているライオンが、その本来の自分というものを得るためには、なにも特別なものを必要としない。

たんに目覚めることが必要なだけだ。 

夢のなかで苦しい思いをしているとき、それを解決する最良の方法は夢からさめることである。

一瞬にして、「あ、なんだ、夢だったのか!」と我にかえる。 

真実を、直接あるがままに、<観る>ことが必要なのだ。 
若いライオンは、水面にうつった自分の姿が大きなライオンと同じものであるのを見た瞬間、自分本来の姿を悟った。 

そこに時間は介在しない。 

そこにプロセスは介在しない。 

それがはっきりわかった瞬間、「ガオー!」というライオン本来の雄叫びが自然にわきおこった。 すべての疑いが氷解し、「これが私だ!」という了解が全身をつきぬけた。 そのとき、ライオンだと自覚したライオン本来の咆哮(ほうこう)が、青空にひびきわたった。 
その瞬間、なにがおこったのだろうか? 

その一瞬前まで、ライオンは羊だった。 

その瞬間から、ライオンはライオンである。 

この十分の一秒間ほどの<一瞬>あいだに、さなぎは蝶になったのだろうか? 

否!、である。 

この一瞬のあいだに、ライオンはなにか特別な成長をはたしたのだろうか?  

否!、である。 

このように短い時間のなかで体験できるものなどなにもない。 体験するためには時間が必要である。 

したがって、その瞬間にはなにもおこらなかった。

が、一瞬にして、「わかった!」のである。 
なにかに「なる」ためには時間がかかる。 

だが、「わかる」ときには時間はかからない。 

メガネをかけていながら、メガネをさがしまわっている人にとって、「メガネはもうかけているじゃないか」という一言だけで十分だ。 彼は、「なんだ、かけていたのか」と言って、笑うだろう。

そのとき、彼は新しいなにかを達成したわけではない。 

「あっ!」とわかるときには、時間はかからない。 

彼はメガネを得るためになにかをする必要はない。

なぜなら、彼はそれをすでにもっているからだ。

ただ、それに気づくことが必要なだけだ。 
あなたはすでにライオンである。 

あなたはすでに、あなたが求めている<よろこび>そのものである。 

あなたはすでに<自由>なのだ。 
これは、「ガチョウは外だ!」と叫ぶ禅の師の教えと同じである。 

あなたは深い海底にもぐって、真珠をさがしまわっている。 

だが、真珠はあなたが持っているのだ。 

あなたが持っている、というのもほんとうは正しくない。 

なぜなら、そのとき<あなた>と<真珠>は別々なものになるからだ。 

正しくは、「あなたが真珠そのものだ」と言わなければならない。 
玉ねぎの皮を一枚一枚 むいていった結果として、真珠があらわれるのではない。 

玉ねぎをむいているあなたが真珠なのだ。 

あなたは、それを一瞬にして、<観る>必要がある。 

一瞬にして、<知る>必要がある。 
真珠は、今、この瞬間、完璧な姿でここにある。 

あなたはそれを知らなければならない。 

玉ねぎの皮をむくのは、時をかせぐ方便にすぎない。 
あなたが真珠そのものだと宣言するこの視点のことを、「パール・ビジョン」という。

 ここには成しとげるものはなにもない。 

あなたはすでに<自由>なのだ。 

あなたの本性をはっきり<観た>とき、あなたはライオン本来の雄叫びをあげるだろう。それを獅子孔(ししく)というのだ。 

それは真の祝祭であり、つきせぬ光明(生)のはじまりでもある。 

 

 

*1. 8/23. 20:00 ~ 9/1. 15:00 (9泊10日)
 ブレス・ファシリテーター・トレーニングコース
深い呼吸を通じて内なるエネルギーを解放する「呼吸の錬金術」。トレーニングの後、ブレスの「個人セッション」ができるようなスキルと瞑想を学びます。
*トレーニングコースを受けた後は、その後のマジュヌのイベント・グループなどにヘルパー・アシスタントとして参加することができるようになります。
・オンライン説明会;8月1日&8日、20時〜(チケット無料を申し込むと、ズームのURLが送られてきます)
https://www.mystic-live.com/breath-training


*8/23(金) - 8/25(日)  タントラ・ブレス瞑想 in 広島
*8/30(金) - 9/1(日). タントラ・ブレス瞑想 in 広島
「タントラ・ブレス瞑想」は、タントラとブレスのさまざまな技法を通して、あなたのクンダリーニエネルギーが上昇することを助けます。そこには歓びがあり、祝祭があり、日々の気づきがあり、そして何よりもそれを瞑想として楽しむことができるというグループです。
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*9月神戸、名古屋、大阪、東京、仙台、岩手イベント企画中!
https://www.mystic-live.com/tantra-bless

 

 

 

 

 

 

 

羊飼いは、毎日羊の群れをつれて、森や草原を歩きまわっていた。

あるとき、川辺で羊たちに水を飲ませていると、薮のかげから小さな動物の鳴き声が聞こえてきた。

不審に思って声のするほうに行ってみると、一頭のライオンが死んで、横たわっていた。

そして、そのそばに、生後まもないライオンの子供が、死んだ母親にすがりつくようにして泣いていた。 
羊飼いはかわいそうだと思って、ライオンの子をつれてかえり、それを羊の群れのなかにいれて育てた。

ライオンの子は、ほかの羊たちと同じように育てられた。

そして、彼はミルクを与える羊を母親だと思い、一緒にミルクを飲む羊を兄弟だと思いながら成長した。 
大きくなるにつれ、ライオンの子は、自分がほかの羊たちと少しちがっていることに気づきはじめた。

たてがみのところにふさふさした体毛はある。が、ほかの羊のように全身をおおっているわけではない。

声も低音で、すこし奇妙だ。それになにより、草を食べてもちっともおいしいと思わない。 
羊は一日中草を食べて満足しているが、ライオンはそうではなかった。 まわりの羊たちは、彼を<病気の羊>という目で見ていた。 
ある朝、羊たちはいつものように草原に散らばって、草を食べていた。 そこに一頭の大きなライオンがやってきた。

薮に隠れて、羊たちに近づきながら、群れに襲いかかる瞬間を確かめるように、羊の群れを眺めた。 
大きなライオンは、そこに信じがたい光景を見いだした。

羊の群れのなかに一頭の若いライオンがいるのだ。

まわりの羊たちはその若いライオンを怖がるわけでもなく、一緒に草を食べながらたわむれている。

大きなライオンは自分の目を疑った。

こんな光景は今まで見たこともなかったし、聞いたこともなかった。 
大きなライオンは藪から飛び出した。 
「ライオンだ!」 
羊たちは四方八方に逃げはじめた。

自分を羊だと思っている若いライオンも、みなと同じように必死に逃げた。

大きなライオンは羊たちには目もくれず、若いライオンにむかって一直線に走った。

若いライオンも全速力で走ったが、大きなライオンの足にはかなわなかった。 
彼はつかまってしまった。

恐怖で全身をおののかせながら、若いライオンは泣いて許しをこいはいじめた。 
「おー、どうか私を食べないでください。お願いですから、みんなのところへ返してください。メエー、メエー」 
自分を羊だと思っている若いライオンは、必死に嘆願した。

大きなライオンは、若いライオンを押さえつけながら言った。 
「なにをバカなことを言ってるんだ! おまえは自分を羊だと思っているようだが、ほんとうはライオンなのだぞ」 
若いライオンは意味がわからないという顔つきで、言った。 
「私は羊です。生まれたときから羊の母親のミルクを飲み、兄弟たちと草を食べながら生きてきました」 
言葉で説明しても無理だと思った大きなライオンは、若いライオンを近くの沼までひきずっていった。 
「目を開いてよく見ろ! 私の姿とおまえの姿を見れば、 同じだということがわかるだろう」 
若いライオンは、水にうつったふたつの動物の姿を見た。

それは驚きだった。

水面にうつっている自分の姿はほんの少し小さいというだけで、大きなライオンの姿とまったく同じものだったからだ。 
若いライオンは、その瞬間、すべてを理解した。 
長いあいだ、自分でもなにかがおかしいと思っていた。

いくら羊たちのようにふるまっていても、そこにはぴったりおさまりきれないもどかしさ、苦しさ、葛藤があった。

一陣の風が吹き、彼ははっきりと自分自身を認識した。

すると、内側から大きな力が湧きおこってきた。

そして、それは耐えがたいほどの強烈さで爆発した。 
若いライオンは全身をブルルッとふるわせると同時に、「ガオー!」というライオンの雄叫(おたけび)びをあげた。

それは、本来の自分自身を知った歓喜の雄叫びだった。 

(コメンタリー)
真実の姿は、ときに寓話という形によって、なによりも明せきに描写されることがある。

(次回に続く)

 

8月の瞑想グループ:

◎ 8/23.20:00 ~ 25. (2泊3日)in 広島
タントラ・ブレス瞑想ABC

◎ 8/30.20:00 ~ 9/1 (2泊3日)in 広島
タントラ・ブレスと瞑想の醍醐味

隠れ家的な広島の瞑想センターで、静かに、深く、賑やかに、ブレス的なカタルシス、タントラ的なエクスタティック・ダンスを通り過ぎて、揺るぎない瞑想の醍醐味(至福)のなかに落ちて着きましょう!

この2日間、あなたはピーク(頂)オーガスムとバレー(谷)オーガズムの両方を体験し、理解することができるでしょう。

*同時に、ブレス・トレーニングもおこなってます。

 

 

 

(前編からの続き)

この話は、だれもが子供のときに、どこかで聞いたことがあるはずだ。

私が小学生のころには「道徳」という授業があったので、そんなところで聞かされそうな教訓話だと思っていたら、精神世界の師たちも神を語るのに使っていた。

この話は、今から100年以上前に、ラーマクリシュナという師によって語られたものだ。

ラーマクリシュナは弟子たちにこの寓話を語ったあと、言った。 
「<神>の本質について議論するとき、一人一人が知っているのは無限の<神>の小さな一部にすぎない。 あなたが体験したちっぽけな一部分で、<神>を限界のあるものにしてはいけない。 <神>は、それぞれの人がそれぞれ異なった体験をすることのできるものの全体像であり、それ以上のなにかだ」 
この<神>というところを<悟り>と直せば、そのまま禅の老師の言葉になる。そのようにして、もう一度読み直してみてほしい。 おもしろいニュアンスの違いを発見するだろう。 
仏教においては神の概念は消し去られるが、仏教の生まれ故郷であるインドには数えきれないほどの神が祭られている。 そのにぎやかさと派手さは他の追随を許さないほどだ。 インドは多神教の国である。だから、神という言葉がよくでてくるが、それほど深刻ではない。 有名な歌手や俳優について話すような感覚で、シバやクリシュナやガネーシュの話をする。 
また、ヴェーダンタやヨガなどは有形の神という概念を用いないかわりに、無形の絶対神としてブラフマンという概念を用いる。 
インドと日本の宗教色のちがいは、ヒンズー教のなかから仏教が生まれた過程をみるとよくわかる。 
ヒンズー教はインドにもともとあった神への信仰の総称であり、あらゆるものをつぎつぎと内包していったがゆえに、 多くの神が共存し、木も石も、魚も猿も、みな神の仲間入りをする。それはなんともにぎやかな宗教であり、素朴で、直裁的であり、肯定的で、男性的である。 「私はあなたが欲しい」とストレートに表現してくる。 神を実現するときの表現も、「千の太陽が一度に昇るようだ」とか、「蓮の花びらが無限に開きつづけるようだ」などという積極的な表現がもちいられる。 
ウパニシャドのなかには、「全体から全体を取り出すと、見よ、全体が残る」とか、「無限に無限をくわえると、見よ、無限は変わらない」などという表現があり、 詩的な感性を駆使しながら、おおらかにそのすばらしさを歌いあげている。 
ブッダが修行していたころには、このヒンズー教体系がすでに数千年以上の歴史をもっていたわけで、既得権をもった既成宗教になっていった。 そうすると、どの既成宗教もだらけてくるもので、はつらつとした輝きがなくなってくる。 そんなころ、ほとんど同じ時期にブッダやマハヴィーラが生まれ、新興宗教としてヒンズー教にたいして強烈なアンチテーゼをたてていくわけである。 それは、当時の人々にとっては革命的なものであったにちがいない。 ブッダはこう言って、既成の宗教の鼻ずらに強烈な一発をかます。 
「光明を得ることは、千の太陽が一度に昇るようなものではない。 それは、太陽も、月も、星も、みな消えていくようなものである」 
そして、また、彼は言う。 「悟りの体験は、蓮の花びらが無限に開きつづけるようなものではない。 それは、ローソクの炎を吹き消したあとの闇のようなものだ」 
ブッダは、何千年にもわたる時間のなかで、真の光彩をうしなってしまった既成宗教にたいして「ノー!」と言ったのだ。 それは、古い伝統にあきあきしていた当時の新知識人層に、新鮮な切り口を提供したのである。 
ヒンズー教の肯定的なアプローチにたいして、仏教の否定的なアプローチは衝撃的な対比(コントラスト)をなしている。 それは、新鮮な息吹であった。 日本では仏教の否定的なアプローチだけが取り入れられたため、若者にとって仏教は暗くて、抹香臭い、厭世的で、死んだような印象を与えてきたが、 それはインドにおけるヒンズー教という太陽がないからである。 月は太陽の光を反射して、その神秘的なうつくしさをいかんなく発揮する。 否定(ネガティブ)は肯定(ポシティブ)があってはじめて、本来のかがやきが発揮されるのだ。 女性がいかにうつくしく、すぐれて、心やさしいからといって、女性だけでは世界は成立しない。 野獣(けもの)のような男が隣りにいてこそ、はじめて女性の美が存分に発揮されるのだ。 
ものごとが生き生きと、よろこびに歌い踊るときにはかならず、肯定的なアプローチと否定的アプローチの両方が、バランスよく機能しているものだ。 否定的なアプローチだけがつづくと、それは本来の躍動感を失ってしまう。 
黒板に白いチョークで「涅槃」と書くから、はっきりとよく見えるのだ。 黒板に黒い墨でそうと書いても、ただ暗いだけで、はっとさせる色彩感をもたらさない。 
単純で、明るく、にぎやかなヒンズー教的アプローチのなかにいると、心がうきうき楽しくなってくる。 そして、そこにブッダのローソクの炎を吹き消した「涅槃」の切り口が、新鮮な静寂をもたらすのだ。 
山に登るときには、いろいろな登山口から登ることができる。 どの道を通ろうと、到着するところは同じである。 
どのような精神的手法によって道を歩んでも、たどりつく真理はひとつである。 ふたつあったら、それは真理ではない。 多くの宗教的なアプローチがあってとしても、至福という目的地にちがいはない。 
だが、人々は、神と言ったり、アラーと言ったり、仏と言ったりする。 意識と言ったり、本源と言ったり、空と言ったりする。 天国と言ったり、極楽と言ったり、楽園と言ったりする。 それらは、たんに異なった表現方法を用いているにすぎない。 それらは、究極的にはすべて、同じひとつのものを別々な指(表現法)によって、さししめしているのだ。 
前述のラーマクリシュナは、たいへん興味深い師たちのひとりである。 彼はこのように語っている。 
「それは水のようなものだ。 水は、それぞれ異なった言語によって、異なった名前で呼ばれる。 湖にいくつかの沐浴場(ガート)があるとしよう。 ある場所で水を飲んだヒンズー教徒は、それを<ジャル>と呼ぶ。 別な場所で水を飲んだイスラム教徒は、それを<パニ>と呼ぶ。 そして、また別な場所で水を飲んだキリスト教徒は、<ウオーター>と呼ぶのだ。 この三つの呼び名はひとつであり、同じものである。ただ名前がちがっているにすぎない。 同じように、真実を、ある者は<アラー>と呼び、ある者は<神>と呼び、ある者は<ブラフマン>と呼ぶのだ」 
だれもが、それぞれ自分の真理体験を、それぞれ自分の言葉で表現している。 だが、それらはすべて、盲目の子供たちが自分の体験によって、「象はうちわのようだ」、「柱のようだ」、「壷のようだ」と言っているようなものである。 「うちわのようだ」と言おうと、「柱のようだ」と言おうと、体験している象そのものは同じものである。 「千の太陽が昇るようだ」と言おうと、「ローソクの炎が吹き消されるようだ」と言おうと、それらはすべて真理の一断面にふれているにすぎない。 
盲目の子供たちはそれを知らない。 だが、師はそれを知っている。 だから、子供は「無知(イグノランス)」だと言われる。 一方で、師のほうは「無邪気(イノセンス)」だと言われるのである。 

町に盲学校があった。

あるとき、子供たちを森にピクニックに連れていった。

昼ご飯を食べて、皆おもいおもいに休んでいると、そこに象と象使いが通りかかった。

先生は子供たちに象という動物を学習させたいと思い、象使いに頼んでみた。

象使いはにこにこしながら言った。

「いいですよ。この象はおとなしいから、さわっても大丈夫です」 
先生の指示にしたがって、子供たちは象をとりかこむようにしながら、それぞれ象に触れはじめた。

一人の子供は象の耳にさわった。

その大きな耳をやさしくなでながら、彼はこう思った。

「象は大きなうちわのようだ」 
別な子供は象の足にふれて、思った。

「象は太い柱のようだ」 
また別な子供は象の鼻にふれて、

「象は太いこん棒のようだ」と思った。 
象の腹にふれた子供は、「象は大きな壷のようだ」と思った。 
だれもが象にふれた体験をよろこんでいた。 
学校に戻ってから、先生が子供たちにたずねた。 
「象というのは、どんな動物でしたか?」 
子供たちは、それぞれ感じたことを話しはじめた。 
「象は大きなうちわみたいなものです」と最初の子供が言った。 
「違うよ。君はわかっていない。象は太い柱みたいなものだ」と二番目の子供が言った。 
三番目の子供が、笑いながら二人のあいだにはいって、言った。 
「なんてばかなことを言ってるんだ。象はうちわのようでもないし、柱のようでもない。それは太くて長いこん棒みたいなものだよ」 
三番目の子供が言いおわらないうちに、また別な子供が口をはさんだ。 
「だれもわかっていない。象は大きな壷みたいなものだ。そうでしょう、先生!」 
子供たちの議論は白熱して、しまいには口論になっていった。

それが峠をすぎたころ、先生が言った。 
「先生が象とはどんな動物か話してあげよう。みんなが言ったことは正しくもあり、また間違ってもいる。

君たちのそれぞれが触れたのは、象という動物の一部分だ。

そこから象の全体像を描こうとしても、それは正確なものではない。

象はうちわのようでもあり、柱のようでもあり、またこん棒のようでもあり、壷のようなものでもある。

そして、これらすべてをあわせたより以上のなにかだ。

それは全体を見ることによってはじめてわかるのだ」 

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この話は、だれもが子供のときに、どこかで聞いたことがあるはずだ。

私が小学生のころには「道徳」という授業があったので、そんなところで聞かされそうな教訓話だと思っていたら、精神世界の師たちも神を語るのに使っていた。

この話は、今から100年以上前に、ラーマクリシュナという師によって語られたものだ。(続く)

 

7月7日〜28日 瞑想の醍醐味 [中級]  セミナー

(毎週日曜 全4回)

参加費: 6,800円

瞑想は真の自分につながる最良の道であり、この味わいがわかると日常のなかにスピリチュアリティの質をもちこむことになります。そうするとあなたの現実世界が少しづつ変容されていくでしょう。

https://www.mystic-live.com/meditation-seminar

 

Group1  タントラ・ブレス瞑想ABC

      〜 祝祭のアート 〜

8/23(金) - 8/25(日)

タントラ呼吸瞑想は、ブレスワークと瞑想に、タントラの実践を統合したパワフルな組み合わせです。このグループでは、ソフトなペア・ワークから始めていきます。老若男女、誰でも参加し、生命エネルギーを謳歌する体験ができるでしょう。

通常 13,000円

超早割(先着6名)8,000円

早割(8/10まで)10,000円

1日のみ参加可 7,500円

https://www.mystic-live.com/breath-group

 

 

 

 

 

 

 

(前編から続く)

 

最近、友人にすすめられて「アルケミスト」という本を読んだ。 
それは、羊飼いの若者が、夢のおつげを信じて、スペインからエジプトまで宝をさがしにいくという物語りだった。 
エジプトに着いて宝の埋まっている場所を掘っていると、盗賊に身ぐるみはがれてしまう。そのとき、盗賊の首領が若者に自分の見た夢の話をするのだ。 
スペインの教会の木の下に宝が埋まっている、という夢だ。

そして、その教会は、若者がいつも羊と一緒に休んでいた教会だった。 
エジプトまでの旅のできごとと、最後のどんでんがえしによって、奇妙なおもしろさをかもしだしていたが、その基本的な構図はこの物語りから取り入れられている。 
これもかなりポピュラーな物語りで、いろいろな師によって話されてきている。 
私は、1980年から2000年頃にかけて、インドを旅しながらさまざまな師に出会ってきた。 
あるとき、プンジャジーという師をたずねたことがあった。

当時、彼は80歳をこえており、世界中からあつまる人々にパパと親しみと尊敬をこめて呼ばれていた。 
インドで年長の人を呼ぶときには、名前のあとに「ジー」という敬語をつける。それで、彼は「パパジー」と呼ばれていた。 
プンジャジーに初めて会ったときの印象は、まったく意外なものだった。 
彼は、大柄な身体を付き添いの人にささえられて、会場に入ってきた。 
そして、壇上の椅子に「どっこいしょ!」というかんじで腰掛けたのだが、それはどう見ても「肉屋のおっちゃん」といったかんじで、優雅さとは遠くかけ離れたものだったのだ。 
その当時、私には、悟りをひらいた師はどことなく優雅でうつくしいものだという思い込みがあったので、「なんじゃ、これは!?」とがっかりした記憶がある。 
彼はどう贔屓目にみても、普通の人以上には見えなかったからである。 
しかし、それは後になって、なににも代えがたい贈りもの(ギフト)となった。 
どうみても普通の人にしかみえない、というところがである。 
そのときは、「遠路はるばるやって来たのに、なんだ、ただのおっちゃんか!」と少しがっかりしながら彼の話を聞いていたのだ。 
ところが、人々が彼のまえに進みでて質問しだすと、場の雰囲気が一定方向に収束していき、さまざまなことがおこりはじめた。 
ある人は泣きだすし、ある人は沈黙のなかに入ってしまう。

ある人は感動しながら、「そうです(イエス)、そうです(イエス)!」と言うばかりだ。 
ほんとうになにがおこっているのかは、当の本人にしかわからない。 
しかし、それは私の魂の琴線にふれて音色をかなでるのだ。 
私はすっかり魅せられていった。 
彼の仕事(ワーク)ぶりは、まるで年期のはいった職人芸のようだった。

刃物の切れ味がよく、かんなをかけたあとがスパッと切れて、光沢(つや)があるというかんじだ。 
彼はラマナ・マハリシの弟子で、主な仕事(ワーク)は「私はだれか――?」という問いに基づいている。 
しかし応答はつねに生き生きとしていて、ユーモアと機知にとみ、目を離せないほど興味深いものだった。 
あるとき、一人の男性が進みでて質問した。 
「パパジー、あなたはだれですか? 
そして、私はだれですか? 
私とあなたの違いはなんですか?」 
プンジャジーはクックックッと彼独特の笑いを見せながら、しばらく笑ったあと、 
「あなたと私のあいだにはなんの違いもないよ」と言った。 
男性はその答えに満足せず、つづけた。 
「パパジー、私はオランダからあなたに会うためにインドまで来ました。でも、あなたは私に会うためにオランダまで行かないでしょう。どこかに違いがあるはずです」 
なかなか的をえた突っ込みだった。すぐれた問いには、すぐれた答えが返ってくるものだ。 
「オーケー」と一息ついたあと、プンジャジーは言った。 
「あなたのなかには、自分自身にたいする<疑い>というものがあるはずだ。そうでなければ、こんな遠くまで私に会いにやってくるはずがない。 
この<疑い>が旅をさせるのだ。私には<疑い>がないから、どこへも行かない。そのほかに違いはないよ」 
プンジャジーは、その<疑い>はここにある、と頭のところをゆびさして、愉快そうに笑った。 
またあるとき、「悟りとはなんですか?」という質問に、やはりクックックッと笑いながら、 
「疑問符というのはマインドのなかにあるだけで、実存のなかには存在しないものだ。 
いいかね。私の言うことに、ちゃんとついてきなさい。まず、最初にもう一度質問をくりかえしてごらん」と質問者にうながした。「悟りとはなんですか――?」 
と質問者が繰り返すと、プンジャジーが言った。

「<何>と<か?>という疑問符をまず落としてごらん。そうすると、なにが残るかね?」

「悟り・です」

「そうだろう? 
つぎに、<悟り>という概念もマインドのものだから、落としなさい。そしたら、なにが残る?」

「・です」

「そうだ。私は医者です、彼は風来坊です、あなたは主婦です、どんなものがその前に来ようと、この<です>という基本形は変わらない。 
なあ、わかるだろう? 
この、<です>、ただ在る、というところから一歩も先に出ないことだ。

そうすると、それは変わることなく、動くことがない。 
いいかね、ついてきているか? わかるかね?」 
サットサン会場に静けさが広がり、深まった。そして、しばらくしてからプンジャジーが言った。  
「・・・じゃあ、最後に、それも落としなさい。そしたら、なにが残る?」

「・・・なにもありません」

「そうだ。それだ!無だ」

「えっ!?・・・」 
「なにもない(Nothing)」と否定的に言った同じ言葉が、満面の笑みとともに「無がある」と肯定的に切り返されて、一瞬マインドがストップしたのである。

質問者は、深い沈黙のなかにはいっていった。 
パパジーのやりとりはつねに絶妙だった。 
言葉を羅列しただけでは、その味わいの90パーセント以上は失われてしまう。 
私自身もときどき彼の前に座って、質問や対話をしたが、いつのまにか内側から力強い気が満ちあふれてくるようであった。 
その秘密は、クックックといかにも面白がっているような笑いのなかにあるように思えた。 
記録にのこされた師の言葉と、生きている師の言葉とのあいだには、同じような言葉であるにもかかわらず、千里のへだたりがある。 
それはいかんともしがたい真実である。 
だから、昔から生きている師をさがすことが探求者の重要なプロセスだったのだ。 
経典というものは、ほとんど、それが目のまえでおこったときの感動の記録なのだが、記録されたあとには、むなしい「文字」が残るだけで、 
ほんとうの「できごと」は消えてしまっている。 
それは、四季折々の会席料理を、外国の日本料理店で食べるようなものである。 
舌が恋しがっているから、それはそれなりにおいしいだろうが、その季節に日本独特の自然環境、温度や湿度のなかで食べるそれとは、質的に異なっているのはやむをえまい。 
生きている師が、生きている状況のなかで繰りひろげるエネルギーの場(フィールド)は、過去の師たちの記録と質を異にする。 
生きた師とやりとりができる機会にめぐまれたら、なにをおいても逃してはならない。 
あるとき、プンジャジーがこの話をしたことがある。 
彼は場所や人の名前は省略して、もっと単純な形で物語りを話したあと、こう言った。 
「見張りの男が『エイシクの家の暖炉の下に、宝が眠っている!』と言った瞬間、それを聞いただけで、もう踊りださんばかりにうれしいだろう? 
そして、家に帰るあいだじゅう、そのうれしさは増していくばかりだ。 
最後に我が家に着いたときのよろこびはどれほどのものだろう? 想像もつかない。 
道具を取り出して、暖炉の下を掘りはじめるときの興奮、その宝の壷にカチっとあたったときの感動、そして掘り出して、実際に触れたときのよろこび、 
至福、感謝・・・、それはもう言葉をこえている。 
そして、実際のところ、これには時間はかからないのだ。一秒でも長すぎる。 
聞いた瞬間、ハートの奥にもどれば、カチっと音がして、宝はそこにある。 
ああ、なんてすばらしいんだろう!」 
聞いているだけで、うれしくなってくるような彼の話しぶりであった。 
宝は実際に手にしたときにのみ、よろこびがわいてくるというものではない。 
宝はあなたのものだ、と聞いただけで、どれほどのよろこびわいてくるだろう? 
そして、そこへ向かう旅のよろこび・・・それはつねに我が家にもどる旅である。

それを、一休は歌う。 
「有露地より無露地へかえる一休み 
雨ふらばふれ風ふかばふけ 」
うれしさに歌い踊りながら、あなたは叫ぶ。「なんだ、そうだったのか! 
宝は最初から私の家の中にあったのか。

なんてことだ。なんてすばらしいんだ!」 
そして掘り出した宝を、目のまえにしたとき、あなたは言葉を失うだろう。 
あなたは至福のなかで沈黙するだろう。 

 

*7月7日〜28日 
瞑想の醍醐味 [中級]オンラインセミナー (毎週日曜 全4回)
参加費:  6,800円
瞑想は真の自分につながる最良の道であり、この味わいがわかると日常のなかにスピリチュアリティの質をもちこむことになります
https://www.mystic-live.com/meditation-seminar

⭐️8月〜9月のグループなど
*1. 8/23. 20:00 ~ 9/1. 15:00 (9泊10日)
 ブレス・ファシリテーター・トレーニングコース
深い呼吸を通じて内なるエネルギーを解放する「呼吸の錬金術」。トレーニングの後、ブレスの「個人セッション」ができるようなスキルと瞑想を学びます。
*トレーニングコースを受けた後は、その後のマジュヌのイベント・グループなどにヘルパー・アシスタントとして参加することができます。完全に独り立ちしていけるまで、マジュヌがサポートします。
https://www.mystic-live.com/breath-training
*8/23(金) - 8/25(日)  タントラ・ブレス瞑想ABC
    〜 祝祭のアート 〜
*8/30(金) - 9/1(日)オーシャニックブレスと瞑想
    〜 至福のアート 〜
https://www.mystic-live.com/breath-group
*9月神戸、大阪、東京、仙台、岩手イベントなど企画中!