一人の女性の言葉 | sachiのブログ

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「一人ひとりがそれぞれに自分らしくいられる場」をつくる人
でありたいなあと思いながら働く日々を綴ります。

「あの子たちはゆとり世代だからって、
チームマネジャーが言ってたのを聞いて、がっくりした。
ゆとり世代って、コミュニケーション能力がなくて根性がないんだって。」

「日本人って信用されてるからどこへでも旅行できる(=ビザがとれる)でしょう。
あたしは中国人ってだけで、入れない国があるのよ。」

「あなた何型?って聞かれただけでいらっとする。
早速タイプ分けから入るわけだよ、人は。くだらないね、気持ち悪い。」


彼らの言うことは、わかる。
カテゴライズされて一般化されると、自分の色んな側面や複雑性が単純化される。
人を勝手に枠にあてはめることの、あの、乱暴な感じ。
失礼なことだし、あまりやらないよう私自身これまで気を配ってきた。
けれど、なぜだろう、私はいつも彼らの発言から、卑屈なかんじを受ける。
拗ねているような、歪んでいるようなかんじ。
その言葉は正論なのに、なぜか聞いていると心が沈む。

そのいやなかんじの正体に気付くことができたのは、
遠いアフリカの地にいる一人の女性の言葉である。
アキュメンファンドの創始者であるジャクリーンノボクラッツ氏の著作・
『ブルー・セーター』の中に出てくる、ルワンダの女性。
あのジェノサイドの後、マイクロファイナンスの支援を受けて
ミルクを販売し、レストランを経営するまでに至った女性の言葉だ。

「たしかに、恐怖を知って、死にたいと思ったけど、いまは強くて、自分の事業があって、
将来の希望もある。それでも私はあらゆる種類の偏見を知ってきました。
ツチ族だという理由で憎まれ、フツ族と結婚したことで余計に憎まれた。
HIV陽性だからと憎まれ、女だからと決めつけられた。
だれが自分を受け入れてくれるかなんて、何の意味がありますか。
だれよりも、私が自分自身を認めなくては。」

私が何を解説するまでもないので、余計な言葉は割愛したいと思う。

もちろん冒頭の言葉たちは、重要な意見だ。
「これって変だよね」と思いながらも、何も考えずにそれを受け入れてしまうより
異論をきちんと言葉にできる人を私は尊敬・・
というかほんとまじで素敵だなあと思う。(自分がうまくできないから。)
でも、区分や偏見は、人種差別から血液型まで、どんなに国が発展して時代がすぎても発生する。
自分の存在をこの世に証明するために、受け入れてもらうために、
ひとは区分するのだから、必ず発生する。
その状況下で、だれかに受け入れて欲しいという思いが前提にあると、
何か軋轢がうまれるような、そんな気がする。
きっとそれは夫や、家族や、親友に対しても同じで、
受け入れて欲しいという気持ちは彼らに重くのしかかり度が過ぎれば関係は破綻する。
一生、誰にも受け入れられることはないのだと、卑屈にでなく、まっすぐ笑顔で言えたら。

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彼女はHIV陽性であることで、人生をあきらめていた。
ジェノサイドでも、兵士に殺してほしいと懇願したほどだった。
私は、その彼女が、自分には将来の希望がある と言い切ったさまに
頭をぼかんと殴られた気分だった。
去年病気になったことで、私は色んなものを諦めていたと思う。
そのマインドは、夫を含めた周りとのかかわり方や、仕事にも影響していた。

この次のエントリーはそのことを書こうと思う。
それ書いたら、その次はいよいよジャックリーンのこと。
丁寧に書いていきたいなあ。