1000冊の本を読むというのは、とんでもない数字だ。

どんなに楽な仕事をしているサラリーマンでも、本を何度も読み返すことを考えると、1か月に2冊の本を読むのが精いっぱいだろう。むしろ2冊読めたらいい方で、1冊すら仕事が忙しくて読むことができないと答える方がほとんどだと思う。頑張って2冊読んだとして、1年続けたとしても1年間にたったの24冊しか本を読むことができない。これを10年続けたとしても、たったの240冊しか本を読めない計算になる。20年で480冊なので、20年読み続けても500冊にすら到達できない。50年で1200冊だ。読み物は何も本だけではない。むろん、ニュース・雑誌等なども目を通すので、なおさら難しい。

 

ところで、世の中に出回っている本の数はどれくらいあるのだろうか?

1990年から2008年までの18年間に出版された本の数は、約120万冊である。しかし、1か月に2冊の計算で行くと、18年間だと432冊しか読むことができない。となると、人は残りの119万冊の本を読みたくても読めないことになる。パーセンテージにすると、わずか0.036%の本しか読むことができないのだ。無知もいいところ。すなわち、人は皆、無知なのである。

 

口論をしていて、ネトウヨや嫌韓がよく使う手は、そんなことも知らんのか!と「無知」を理由に、相手を論破しようとする行為。これは論破とは言わない。人は皆、無知なのであり、すべてのことを把握することは不可能。無知を理由に論破できるのであれば、すべての人が論破されてしまう。

 

そんなことも知らんのか!と言われても、知らなくて当然。

 

口論というのは、お互い無知を承知で、知識を出し合い、照らし合わせていく行為。論破というのは、相手の無知を探す行為ではなく、相手の思考回路に辻褄が合っていないかを指摘する行為をいう。相手が無知なら教えてあげて、思考回路を組み立て直す機会を与えてやるのが本当の口論だ。

 

それを、取るに足らない無知を暴くと「やった!勝ったー!論破した!」と喜ぶ。

 

相手にしていて本当に呆れてしまう。こちらの取るに足らない無知を正して、論理を組み立てなおしても、論破できていないのにだ。にもかかわらず、「論破したから謝れ!」と捲し立てる。いやいや、論破できてませんから・・・。指摘を正したところで、おれの論理に何の影響もない。むしろ反論できなかった、あなたが論破されています。論破したければ、取るに足らない無知を突き倒すのではなく、俺の論理の辻褄を崩すような発言をしなよ。

 

自分も無知であることを棚に上げて、「相手のへまを突き倒せばいいんだよ。とにかく勝てばいいんだよ勝てば。」こういう人にはレッドカード、退場してもらうしかない。ところが、野次馬は退場しない。無視して入場しようとしてくる。こういう野次馬には、コメントを拒否するのが一番だ。相手するだけ時間がもったいないからだ。

 

そこで、議論にもルールが必要だと思う。

 

「そんなことも知らんのか(笑)」

 

この言葉を発した時点でレッドカード、退場してもらう。

 

おれは大宅に秀吉の時代よりも以前の歴史については疎いといったはずだ。無知であると。それにもかかわらず、取るに足らない間違いを突き倒して、「論破した。謝れ!」と言ってきた。ご指摘を受けたとおり、こちらは正しましたよ。でも、正したところでおれの論理に何の影響もないので論破できていない。取るに足らない指摘だからだ。むしろ反論できなかった大宅こそ、おれに論破されている。それを認めない、こいつはレッドカード。退場だ。

 

そもそも大宅のいうように「秀吉の朝鮮侵略は、800年も前に朝鮮政府が朝鮮海賊を日本によこし日本の女・子供を虐殺したのを見かねて、天誅を下した」なんて、あんたこそ論破されているんだよ。

 

大宅が指摘したように日本の城の石垣が日本独自のものであることを俺が正したところで、では朝鮮に石垣が全くなかったかというと、あるんだよ。ただ、日本の城の形をしていないだけで石垣自体は朝鮮にも中国にも存在する。そんな取るに足らないことを指摘して論破したと喜ばれても・・・、たとえ朝鮮の石垣が反っていなくとも、朝鮮屋根は反っていたそうですから、それを見て学んだんでしょう。それを石垣のプロに作るように命令したんでしょう。そのプロが日本人であれ朝鮮人であれ、公園で見つかった墓石が秀吉軍が朝鮮から盗んでいない証拠にならないんです。どうして盗んでないことになるんでしょうか?

 

俺の主張「数年間朝鮮侵略で日本にいなかった清正が、(一時日本にいたが)朝鮮から何かをみて武者返しを編み出したに違いない。なぜなら、熊本城の瓦は朝鮮瓦が使われているし、九州で朝鮮侵略後、80年間ほど日本になかった新技術である石橋ブームが起こっているし、多くの朝鮮技術者を拉致してきているし、そもそも日本は木造、朝鮮は石造で有名であることも本や資料から伺えるからだ。墓石にも文字を彫りこむように、朝鮮の彫る技術は日本よりも長けていたのであろうことが予想されるので、金属に文字を彫る朝鮮人ならではの発想で朝鮮の最古の金属活字を開発したのもうなづける。」という俺の主張を覆したことにはならないんだよ。

 

墓石だけでなく、鐘を盗んだ、金属活字を盗んだ、いろんなものを盗んで拉致して、殺して耳塚作って、これだけ資料が出てくるのに、どうして墓石だけは秀吉軍が盗んだものではないことが証明されてしまうのでしょうか?

 

おれはこれらを資料を持って示し論破した。(その他の読者は過去ブログを探して読んでみてください。)

 

それなのに。

 

大宅いわく「ハッシー君は、本に書いてない事を聞かれたらもうアウト。~自爆する。」 

 

えっ、なら大宅の語る歴史ってのは、本にも書かれていない歴史を自分で作って書いている、ってことか?そりゃ捏造じゃねえか!自爆してんの大宅じゃねえか!こんな頭の持ち主じゃ、こんなことも言えるよな。↓

 

大宅は「秀吉の朝鮮侵略は、800年も前に朝鮮政府が朝鮮海賊を日本によこし日本の女・子供を虐殺したのを見かねて、天誅を下した」なんて語っているし、800年も前の海賊行為をサルといわれた秀吉が知っていたのだろうか・・・。だとすると、秀吉は相当、歴史好きだったのだろう。当然、読み書きにも真剣に取り組んだに違いない。たとえ大宅の主張が正しいとすると800年後の子孫は、日本人に何にもしてないことになるから、何にもしてない子孫に天誅を下すって酷くね!?

 

熊本城の朝鮮瓦も「朝鮮人を食べさせてあげるために、仕事をさせてあげて朝鮮瓦を使ってあげた。」なんて、大宅は主張しているけど、これも妄想。そもそも、朝鮮人を食べさせてあげるために、仕事させてあげるために拉致する必要があるんだろうか・・・。そんな足手まといは最初から拉致しなきゃよかったんじゃね?そう解釈するよりも、技術を盗みたいから拉致して朝鮮瓦を焼かせて使ったと解釈するほうがしっくりするでしょ。しかも、大宅の主張はどこの本にも、資料にも見たことがない。

 

京都の耳塚もあるしな、秀吉軍は何万という朝鮮人の耳を漬物にして持ち帰った。そんな恐ろしいことをする日本に、拉致されてきたのではなく、朝鮮人が喜んで自主的に着たなんて言われても説得力に欠けるしよ!

 

朝鮮(母国)へ帰りたいという当時の拉致された朝鮮人の言葉も書き残されているし、子孫も今も日本に住んでるぜ!

 

大宅いわく「ハッシー君は、本に書いてない事を聞かれたらもうアウト。~自爆する。」 とかいいながら、大宅は、どの本にもどこの資料にも書かれていないことを、書きまくっては論破したと捲くし立てる。

 

おれも本に書かれていない事を書くことがあるが、その書いた内容は、元が本や資料に基づいている。しかも、経済的法則性に則った内容である。経済が因となって歴史という果が生じる、という法則性にのっとっている。(→ 詳しくは改めて書こう。)

 

話は最初に戻るが1000冊の本を読むというのは、大変なことがお分かりだろう。しかし、世の中に出ている何百万、何千万という莫大な知識からすると、1000冊から得られる知識は、ほんのわずかしかない。つまり、人は皆、無知なのである。

 

ところが、大宅という人は、本に書かれていない事を自信たっぷりに書く。自分が無知だという自覚があるのだろうか・・・。しかも、その内容が、どこの資料にも基づかない内容で、かつ経済的法則性にも則ってもいない。少し私が例を示しただけでも、そのでたらめさと、めちゃくちゃさが分かるだろう。大宅の言うことを信じろ!と言われても無理なんですけど・・・。

 

世の中、こんなとんでもない人がいるんですな・・・。

 

 

 

付け足し

1ヶ月に2冊って少なくないか、と思う人は相当な暇人なんだろう。実際、1か月に12冊ほど読むこともあるが、忙しすぎて1冊すら読めない月もある。なぜなら、今まで読んだ本を何度も読み返したり、思考したり文章を構想したりする時間に費やすためだ。差し引きすると結局、月に2冊程度しか読めていないことになる。「本は1度読めばいい、その内容について考察する必要などない」と考えている方は、確かに1か月に2冊は少ないだろうが、それで読んだ意味あるの?と聞きたい。本は何度も読み返して価値が出てくるものだ。