前回ブログで朝鮮王朝や両班の苛斂誅求政治も取り上げないと、勘違いが生じるとコメントをいただきました。ちょっとだけコメント。朝鮮での苛斂誅求政治についてはすでに過去ブログに書いたのでそのことだけ言ってきます。何でもかんでも日本が悪いなんていうつもりありませんから・・・。

さて、嫌韓との口論に付き合うだけ時間の無駄なので自分のブログを進めるとしよう。日本での奴隷売買について2回にわたり掲載します。

日本は大昔から人身売買が許可されていた。廃止されたのは明治維新後です。きっかけは1872年の日本が雇っていた中国人労働者二人の逃亡でした。彼らは日本から逃亡しイギリス軍艦に身を隠したのです。彼らを捕まえるためにイギリス軍艦の取り調べを要求したが断られてしまう。そこで日本はペルーの人身売買を取り上げ「人道上、黙許することはできない」と主張し、イギリス軍艦の取り調べの口実を考え出したのである。そして国際裁判にまで発展させたのでした。


ところが、日本も人身売買をしていましたので、逆に「日本も人身売買してるではないか!人道上、黙許することはできないだと!なに格好いいこと言ってんだよ!」と突っ込まれ、やむなく日本で人身売買が廃止されたのでした。とは言うものの日本がはじめて西洋人相手に裁判で勝利した。日本人は西洋人と対等なんだということを西欧列強に認めさせるには、人身売買を廃止してまでも、負けられない裁判だったんですね~。


ところが、実は人身売買を日本郵船が継続していたらしい・・・。今日はこの話はするつもりはない。


では、日本ではいつから人身売買が行われていたかというと、戦国時代に遡ります。1541年フランシスコ・ザビエルが日本に鉄砲二挺が持ち込まれ、信長が大量生産するわけですが、鉄砲には火薬が必要でした。この火薬を生産するには硝石を手に入れなければならないのですが、日本では硝石は一粒も産出されませんでした。戦国期に生き残るためには、なんとしても硝石を手に入れる必要がありました。そこでポルトガル商人から硝石を手に入れます。


ところが、ルイス・フロイスが記した「日本史」に驚くべきことが書かれているのである。


天正少年使節団としてローマに渡った大友宗麟がイエズス会に武器援助の要請をし、織田信長に鉄砲や火薬を仲介していることが書かれてある。そして火薬製造に欠くことのできない硝石を輸入するために、若き娘を人身売買して海外に売り払ったと記されているのである。しかも日本人だけでなく朝鮮人まで含まれている。また、キリシタンは日本でカトリックを布教するのに仏教の破壊を目論んでいました。そこで、仏教を破壊することを条件に硝石を売ったのでしょう。大友宗麟も宇佐八幡宮を焼き、仏像、寺社を破壊、信長も仏寺破壊を行って、それをフロイスが祝意を表明しているんですね。それも硝石を手に入れるために。


また、山田盟子「ウサギたちがわたった断魂橋」には、このような記述がでてくる。


「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されてゆくのを正視できない。鉄の枷をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、なぜ同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石と交換し、インドやアフリカまで売っている。」


なんと、50万人もの日本人女性を硝石欲しさに海外に売り飛ばしたというのである。(ほんまかよ・・・。ちょっと山田さんの話は懐疑的ですが・・・。)その中心となったのが大友宗麟を代表するキリシタン大名だったのだ。戦国時代は、女性の犠牲の上でおきていたんですね。ポルトガル商人の代表はアルメイダである。アルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れ込んで海外に売りさばいたボス中のボスであった。


魔女審判裁定書の中にも「東洋へ硝石さえ持っていけば、女はいくらでもくれる」と書かれている。


キリスト教信者からすれば信じられない話だろうが、これがキリスト教なのである。十字軍も同様に残虐だったんですよ。キリスト教ではキリスト教徒でないものは人間として扱われませんので、日本女性たちは人間扱いされませんでした。人身売買など悪い行為だという認識さえないんですね。


その後、秀吉はキリシタンから明の征服計画を持ち出され、その誘惑にのります。その証拠が次だ。


キリシタン古文書にはこのようなことが書かれている。


「それらの東洋での征服事業は、霊的な面ばかりでなく、それらに劣らず陛下の王国の世俗的な伸展に益する。そしてそれらの征服事業のうち最大のものの一つは、このシナを征服することである。」


一緒にシナを征服しよう!豊臣秀吉は、イエズス会のコヨリエと、明への共同出兵を語り合っています。秀吉はキリシタンと仲良くしていたんですね。このように日本を後ろから支えたのはポルトガル、イスパニアであり、朝鮮の抵抗を支えたのは民国という国際戦争の一面が長崎という国際都市から見えてくる。


ところが、その後に秀吉は、コヨリエが日本人を人身売買し、日本もシナと同様に征服計画に入れられていることを知ったのでしょう。そこで秀吉は激怒した。それに対し、スペインの総督は秀吉に脅迫状を送ります。


「宣教師は征服者の先触れである。覚悟するがよかろう。」と・・・。


秀吉はこうしてキシリタン宣教師追放令を出し人身売買を廃止します。さて、秀吉はなぜ追放令をだしたのか・・・。


ウィキペディアより「バテレン追放令」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4


注目したいのが次の記述だ。


この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡しており、強制的にキリスト教への改宗をさせることは禁止しているが、個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは規制しておらず、一定の領地を持つ大名がキリスト教信者になるのも認可制(秀吉の許可が必要)とされたが、これも禁止されてはいない。また、下層の民については自由であることを定め、建前としては信仰の自由を保障するものであった。


秀吉は激怒したものの、どうしてもキリシタンと商売せざるを得ず、その後も友好関係を続けたようである。このあたりの話はとばす。


「ウサギたちがわたった断魂橋」には、このようにも書かれている。


日本人、朝鮮人が奴隷として海外に輸出された。1587年に発した人身売買禁止令は、かかる場合に対する応急処置であった。


つまり、人身売買を廃止するために秀吉は禁止令をだしたというのである。これはもっともな意見に思えるが、私は物申したくなる。実は秀吉は禁教令を出したにもかかわらず、朝鮮侵略において秀吉の部下たちは、朝鮮人女性を拉致しポルトガル商人に売り飛ばして硝石を購入していたのである。秀吉は確かに人身売買を廃止したはずなのに、なぜまた人身売買が行われていたのであろうか・・・。


これについては次回。