朝鮮砲術 「棒火矢」 について。


過去に、あるコメンターから、「火縄銃は湿気てほとんど使い物にならなかったはずだ」と意見を言ってこられた方がいた。だが、それはこの方の誤りである。それを今から証明しよう。


「朝鮮実録」をご存知だろうか。ここに、次のような内容が残されているのである。


朝鮮では日本の鉄砲は、飛ぶ鳥をも打ち落とす事が出来るという意味で鳥銃と呼んでいたこと。また、初めてみる鳥銃の威力に驚き、慌てふためいた内容、また当時の朝廷では鳥銃をどのように防ぐかという議論まで書き残されている。また、鉄板で全身を覆えばいいとして実際に作ってみると重くてとても動けなかったと言う陳腐な話まで残っている。


また、柳成竜回顧録「懲秘録」の中でこのような記述がある。


「 倭奴は攻戦に習熟し器が鋭利である。昔は鳥銃が無かったが今はこれを持ち、その遠くまで発射する力と命中させる手際は弓矢に数倍する。弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、それも風はくのよう飛んで来るからとても対抗できない 」


過去に、あるコメンターから、「火縄銃は湿気てほとんど使い物にならなかったはずだ」と意見を言ってこられた方がいたが、「朝鮮実録」や「懲秘録」に記述されている以上、日本の火縄銃が、朝鮮侵略に大いに活躍したことは明白なのである。間違いなく、壬申倭乱において朝鮮側の緒戦の敗退の理由は、日本軍の近代武器である鉄砲による。


ところがである。ここまで火縄銃に苦戦していた朝鮮が、最終的には形勢逆転し日本軍を追い出してしまうのである。いったい何が起きたのか・・・。


ここで突然質問するが、

「沙也可」という日本人をご存知だろうか?


「沙也可」という日本人は、実はもともと加藤清正の左先鋒将であったが、部下を連れて朝鮮側に寝返り、朝鮮人に火縄銃の製法を教えた日本人なのです。


「沙也可」は、朝鮮文化の先進性と礼儀正しい民族性を慕い、理由も無く侵略した日本軍の蛮行を深くわびたという。沙也可は、朝鮮軍につき朝鮮調停から金忠善という名前と高い位を与えられ、朝鮮軍に鉄砲や火薬の製作を伝授しつつ、その後7年間、慶向道の義兵と力を合わせて、数度、日本軍と戦闘を繰り広げました。


沙也可のように投降した日本軍を降倭と呼びます。壬辰倭乱の間に計1万人に達する日本兵士が朝鮮側に投降したというからその数に驚きである。日本の農民や漁民の多くが朝鮮に強制的に連れて行かされた挙句に過酷な戦況下にさらされましたから、このようなことが起きてもおかしくないでしょう。


秀吉が朝鮮を侵略したとき、当時の日本側の文書では朝鮮軍や明軍を「敵」と書いてあるが、朝鮮側の文書では「敵」ではなく、「賊」と書いている。つまり朝鮮は日本軍を対等な「敵」以下の、単なる「賊」とみなしていたのである。事実、秀吉は大義名分もなく、他国に攻め入り、日本軍が朝鮮で行ったことは「盗賊」行為そのものであったからである。


で、繰り返しますが、実は、朝鮮側に投降した沙也可ら日本人が朝鮮側に鳥銃の製法を教えたのです。「朝鮮実録」や李舜臣の「乱中日記」にも、投降した日本人から鳥銃の製法を聞きだし自力で製作しさまざまな飛び道具を発明したことが書き残されています。


また「乱中日記」には、このようなことも書かれています。


「 鋼製で作った銃筒は戦用にもっとも緊要なものであるが、わが国の人はその製造法を知らなかった。だが今やあらゆる研究を重ねて鳥銃を作り出した。倭銃よりもさらに精巧で、明国の軍人が陣中に来て討射して、素晴らしいと賞賛しない者がなかった。既にその妙法を会得したので多数作り出すべしとして、巡察使や兵使の所に見本を送り、また公文を回して知らせるようにした。」


また日本人の水軍として出兵した淡路の脇坂安治の「脇坂記」には、李舜臣率いる朝鮮水軍との海鮮で敗戦の様子をこのように記している。


「 敵の番船、味方の船へ<ほうろく火矢>を投げ入れて、船を焼ける間・・・ 」


「 敵の番船が押し掛けて、味方の船へ「ほうろく火矢」を投げ入れたので、瞬時に船が焼けてしまい、そのために名のある侍たちが討死してしまった。」


「ほうろく火矢」というのはおそらく朝鮮砲術「棒火矢」を大型化した武器のことでろう。ほうろく火矢は、船に突き刺さって爆発するなどして燃え上がったと言う。朝鮮水軍は船に大砲を搭載して日本水郡を打ち負かしたと言うことである。つまり、この亀甲船にみられる大砲のようなものが朝鮮砲術、棒火矢の発展系「ほうろく火矢」だと言うことです。



亀甲船



朝鮮では銃よりはむしろ砲において日本を勝っていた。李舜臣はたった
12隻で日本水軍の三百余隻の水軍を破ったのである。この話は有名なのでみなさんご存知でしょう。勝因は朝鮮砲術だけでなく潮流をうまく利用した戦いであった。はじめは潮流に乗って三百余隻で朝鮮水軍の軍船を包囲して優勢だったが、途中で逆潮になったため、形勢が逆転したのだそうだ。


日本の史書にも、朝鮮の役は鉄砲を駆使して勝利を強調した記述が残されている。しかしそれは最初だけのことで、日本軍の上陸後1年後には朝鮮軍は日本軍がそれまでまったく知らなかった多様な武器を使って日本軍を南海岸へ退却させ、最終的には全面撤退に追い込んでいます。


このように最初、日本にやられっぱなしで会った朝鮮人が逆に日本軍を追い出すほど力を付けたのも、沙也可という日本人が朝鮮人に鳥獣の作り方を教えたからなのである。


沙也可は戦争が終わった後、晋州牧使の娘と結婚して大邸友鹿洞に根をおろすようになったそうです。また、倭乱の後に、刀伊の乱でもでてきた女真族が、朝鮮国の北辺に侵入したところ撃退するという活躍もしています。刀伊の乱は、過去ブログにも書いたとおり、朝鮮海賊ではありません。その正体は女真族です。


また、後に日本でも朝鮮砲術、棒火矢が使われるようになります。日本で使われた棒火矢は、木の棒に羽根をつけ、先端に火薬を巻きつけて、火を吹きながら飛ばした武器だそうだ。島原の乱では、この棒火矢が鉄砲やカノン砲よりも効果があったらしく、他の藩でも三木流、武衛流、中島流、荻野流などの各流派を導入するようになったのです。