写生の現場主義 |  SHOKEI 'S TIMES

写生の現場主義


一昨日も生徒さんの野外写生に同行した。

前回と同じ多摩川河川敷なので
再度 日焼けの失敗を繰り返さないように
UVカットのジェルを丹念に塗りまくって出かけた。

天気予報では曇りから小雨~と言っていたのだが 
今回も多摩川は晴れてしまった・・・。





しかし 戸外に出て広々した空の下、微風に包まれながら目の前に広がる
色や奥行きを追いかけるのは気持ちがいいものだ。
水彩画を本気で描き始めた頃 は 暗くなるまで林や河原で描き続けていた。
長時間、現場で対象を見つめていると次々にいろいろな発見があるし、
その「場」との一体感も味わえたりするのも 醍醐味のひとつだった。

水彩画家の友人にはこの所謂「現場主義」を自分の方法論として拘っている方も
多い。 また水彩画の写生の愛好者の中にも現場主義を水彩画の王道のように
考えている人もいる。

しかし絵画の歴史を遡ってみても現場で描き上げる「現場主義」の画家は
とても少ないと思う。

表現は 再現よりも再創造に近いのではないか・・・。


「風景」が好きな人と 絵としての「風景画」が好きな人は少し違うと思う。
風景が好きならば現実の風景を愛せばいいし 客観的な記録ならば写真の方が
優れている。風景画は「人工物」として面白いのだろう。
わざわざ絵として描こうとするのは「私」が見た心を描きとめたいのだろう。
また私が見た「モノ」を素材として自分だけの世界を絵として再構築しようと
する。セザンヌが言う「レアリザシオン(実現)」は後者の意味が強いと思う。



古典画家の中には大きな岩を画室に運び入れ、その岩を山に見立てて風景を
描いた人もいたという。何も見ないで描くよりも代用品でもいいから見て
描いた方が説得力がでるからだろう。
それに絵の具チューブが普及していない時代では戸外制作は難しかったと
考えられる。

野外での制作はブーダンの奨励もあり印象派以降に多くなるのだが、戸外で描いた 
モネが戸外の現場にいたのは10分間 ほどにすぎなかったとアンジェール ・ラモット
が記している。彼は 光を追う為に ま た同じような光の状態がくるまで「待つ」
画家だったので現場には長居しなかったそうだ。

風景画で有名なユトリロは殆ど画室で写真や絵葉書から描いたとも言われている。
ボナールも最初に見た時のイデーを大切にして、その記憶と造形性で描いた画家だ
ろう。彼は街ですれ違っただけの人を 家に帰 ってから描いたというエピソードも
あるから 右脳の記憶力?の優れた人なのかもしれない。
ゴーギャンに至っては見ることすら否定的な発言がある。

現場で描いた画家といえば、ゴッホがいる。 ゴッホは対象が無いと描けない画家
だったのでゴーギャンの勧めで対象を見ないで描いた作品もあるのだが、結局は
失敗している。(本人はその絵を「抽象」と記している)
現場で見て感じたことと自分の思想を瞬時に描き込もうとした画家だと思われる。

セザンヌは 自然を見つめ続けて描いたと思えるが、「自分が何を描くべきか」
そのイデーを最後まで崩さずに対象と正面から向き合えた数少ない画家の一人
だったのだろう。とても強靭な精神力だと思う。
現場主義の危険性はまずここにあると思う。
ボナールなどが恐れたのも現場で見続けるといろいろなモノが見えてきてしまい
描いているうちに最初のイデーを見失ってしまう事だ。
目が奴隷のように対象の表面に従うようになっては「私」の絵はできないと思う。

しかし 最初のイデーに拘らないと言うか 見続けることで変わっていく事を
逆に最初のイデーから離れてしまうのをよしと考える画家もいる。
ボナールと親しいマティス等は 変わっていくことをむしろ楽しみ
必然的な行為だと考えた画家だと思う。ここにも別の強い精神性を感じる。


最近の私は 現場で描いて方向性を決め、家に持ち帰り続きを描くようにしている。
そして仕上げ直前の段階でその絵をもう一度 現場に持って行って検証する事が多い。
家で描き込んでいるので現場の風景とはかなり異なってしまっているが 
見直すことで自分が何を表そうとしていたか見えてきて面白い。

水彩連盟の(故)水谷仁美さんとこの方法論で同意したことがある。水谷さんは 
最後に現場に行くのは描かせてくれた自然に対してお礼を言うためでもあると言っていた。

絵は「再現」から入って「自己表現」として画面の上で育てたいと考えている。
「画家は見たから描くのだ」と誰かが言っていたのは 至言だろう。 
自然でも幻覚でもいいから とにかく見たものを「核」として描きたい。

しかし ただ見たものを客観的にコピーするのではなく
それは「私が見た」ものでありたいし、画面上で「私が育てた絵」でありたい。

今のところ 私はまだまだ現場主義を貫くほどの強い精神力はないし、
描くべきものも揺れているので 当分は拾い集めた「核」を画室で煮込んでは 
夜な夜なこっそりと自分を捜したいと考えている。