第9379回「日本文学100年の名作 その1、1915年 父親 荒畑寒村 ストーリー、ネタバレ」 | 新稀少堂日記

第9379回「日本文学100年の名作 その1、1915年 父親 荒畑寒村 ストーリー、ネタバレ」





 第9379回は、「日本文学100年の名作 その1、1915年 父親 荒畑寒村 ストーリー、ネタバレ」です。新潮文庫が全10冊で企画した日本文学の歩みを編集したアンソロジーです。随時取り上げていきたいと思います。


 ここで、巻頭を飾る荒畑寒村の略歴を、ウィキペディアから写真と共に抜粋することにします。

 『 日本の社会主義者・労働運動家・作家・評論家。日本共産党と日本社会党の結党に参加するが、のち離党。戦後1946年から1949年まで衆議院議員を務めた。


 ・・・・ 堺利彦の世話で牟婁新報での新聞記者を経て平民新聞の編集に参画。同紙で同僚だった6歳年上の管野スガと内縁を結び、1907年に結婚した。1908年、赤旗事件で検挙されて裁判で有罪となり、重禁錮1年。入獄中にスガとは離婚。


 女性の側から三行半をたたきつけられた格好となったので、寒村は激怒し、2年後に出獄するとピストルを入手してスガを射殺しようとするが、果たせず、代わりに桂太郎首相の暗殺を企てたといわれるが、いずれも実行できなかった。しかし幸徳秋水(管野の内縁の夫)とも疎遠になったことで、結果的に幸徳事件(大逆事件)での検挙・処刑を免れた。


 ・・・・ そして山川均・猪俣津南雄らと1927年に「労農」を創刊、労農派の中心メンバーとして非共産党マルクス主義の理論づけを行った。日中戦争が始まると反ファシスト運動を主導した日本無産党にも参加した。しかし1937年に人民戦線事件で、山川・加藤勘十ら400名以上とともに検挙され、終戦まで投獄された。 』


 「父親」は、社会運動家が書いた私小説的な短編ですが、父親の視点に焦点を合わせています。


「その1、1915年 父親 荒畑寒村著」

 孝次の父親が東京に出てくるところから小説は始まります。10年前に49歳で亡くなった母親は、10人の子どもを生んでいます。長男の庫吉は旅順の攻囲戦で戦っており、満州を放浪していた孝次は日本に帰って来たものの、逮捕され今では吉祥寺に引っ越し、新聞社を立ち上げるとか言っていました。


 母親の死を契機に、孝次と父親は長年の確執がありました。娘のひとりから孝次のことを聞かされていた父親は、ふと息子の様子を見たくなった言うのが本音でした。永年東京で暮らしていた父親でしたが、今では横浜で商売をやっています。まず銀座界隈に出てきた父親は、八王子方面行きの発車時間を聞きます。


 このあたりの描写は、江戸っ子らしい活発な会話で構成されています。1時間ほどの待ち合わせ時間で汽車に乗り込んだ父親は、車中から車窓の外に拡がる田園風景に見とれます・・・。吉祥寺駅で降りますが、当時の駅前はまだ桑畑が生い茂っていました。


 息子の家を訪ねましたが、応対に出たのは、孝次の女房ののお光でした。孝次は外出していたのです。父親は当初、息子の結婚に反対していました。お光が遊女上がりだったことも一因です。ですが、お光と世間話をしているうちに、ほっとしてくるのを感じます。この女が女房なら、孝次も大丈夫だと・・・・。


 昼食を勧めるお光の申し出を断り、父親はふたたび汽車に乗り込みます。「彼は無理押し付けに押し付けると、却って反抗する性質(たち)なのだ。ジワジワと情を見せ、道理を説けば、決して解らないんじゃないのだから。然し子の女房の処へ頭を下げて、穏やかにさして呉れと頼みに往く!いや、是がいいんだ。是れで彼の心が静まりさえすりゃ……。」


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