第8861回「梅原猛著、百人一語+その3、豊臣秀吉、浪速のことも 夢のまた夢、辞世、ネタバレ」 | 新稀少堂日記

第8861回「梅原猛著、百人一語+その3、豊臣秀吉、浪速のことも 夢のまた夢、辞世、ネタバレ」





 第8861回は、「梅原猛著、百人一語+その3、豊臣秀吉、浪速のことも 夢のまた夢、辞世、ネタバレ」です。


 『 露と落ち  露と消えにし  我が身かな  浪速のことも  夢のまた夢 』


 戦国一の出世頭と言われた秀吉でしたが、晩年は狂気に取りつかれていました。そして、豊臣家も滅亡します。


 『 (1582年、)信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信忠の遺児三法師を擁して織田家内部で勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。


 大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たし、太閤検地や刀狩、惣無事令などの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが、明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した(1598年)。


 秀吉の死で徳川家康が台頭し、関ヶ原の戦いの結果、豊臣家は事実上諸大名に転落。豊臣家と徳川家の対立は深まり、1614年から1615年の大坂の陣で豊臣家は滅亡に追い込まれた。 』(ウィキペディア)


 実子の誕生により、世継ぎにと考えていた秀次に対する秀吉の謀略は、遺児・側室にまでおよび凄惨を極めました。戦国の世とは言え、異例の事態に発展しています。


 『 (1595年7月)15日、秀次の許へ福島正則・池田秀氏・福原長堯の三使が訪れ、賜死の命令が下ったことを伝えた。同日、秀次は切腹し、小姓や家臣らがそれに従って殉死した。


 8月2日、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の眷属が尽く処刑されることになった。秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女らおよそ29名が処刑された。  』(秀吉の肖像画を含めウィキペディアから引用)


 冒頭の辞世は時によって印象が大きく変わります。時にのんきなじいさんの愚痴、時に熾烈な覇者の感慨・・・・、やはり不思議な人物です。


(追記) 梅原猛著「百人一語」につきましては、随時ブログに取り上げていく予定です。興味がありましたら、お手数ですがブログトップ左側にあります"ブログ内検索"欄に"梅原猛"と御入力ください。