日記『人生はお散歩』

日記『人生はお散歩』

チャネリングによるメッセージと、何か気にとめる事があれば日常の出来事を書いてます。ブログに関する質問やスピリチュアルな相談のある方は遠慮なくメッセージからどうぞ。

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どうしても目に見えるもの、耳で聞こえるものが物事を判断したり、決める基準になる。

それは体を持って生きる上では仕方のないことだ。


問題はそこではなく、その体で見たもの聞いたものが正しいと思い込む事が問題だ。


多くの人がそうだからとか、自分しかやってないという事実を物事の基準にはめてはいけない。

多くの人がそうとは知らず間違いを犯し続け、過ちに気付かずにいることだってある。

大事なのはなぜそれを正しいと思うのか、なぜそれを間違っていると思うのかを自分の言葉で説明できることだ。


だから、多くの人がやっているとか、自分しかやってないというのは理由ではないのだ。


物事の良し悪しや善悪を周りの価値観にはめて、口当たりの良い理由を述べることは自分の言葉で語らないという意味で無責任だ。


当然あなたのその意見が批判に晒されることもあるだろうし、意味も価値もないと目を向けられることすらないかもしれない。


それでもまた同じように考えなくてはならない。


大事なのは己であり、個だ。


集団は個が膨れ上がったものであり、個に比べ強力ではあるが、しかしその集団の個一つ一つに己がなければ、それは個以上に脆弱なのである。


痛い批判に晒されようとも、心が折れるともしれない孤独に晒されようとも、どんな時にも己を捨ててはいけない。


それでは何も開けない。







寝ようかと思っていたらまた地震が起こった。
携帯電話に地震速報が来るけど、届いた2~3数秒後には遠く離れた福岡にも地震が来るわけです。

速報が届くの遅いよ!と思っていたのが昨晩。

今晩はテレビをつけていたら熊本からの生放送をしていた。
その放送中に地震がまた今起こった!とテレビで報じた数秒後にこちらも揺れた。

速報が届くのが遅いのではなく、揺れの伝わる速度はそれくらい速いのだ。


地震大国日本、今は九州で起こっているがこれが次はどこで起こるかは分からない。

皆さん、地震速報は聞きなれない音であなたの携帯電話を鳴らします。
「何だこれ?何の音?」と考えてる暇はありません。
速報を読み始めた頃にはあなたがいる場所が揺れます。


速報は何が起こって地球が揺れているかということを理解させてくれるだけです。


天災が起こるとどこが安全でどこが危険かも分からなくなり、パニックになります。
速報は何が起こったかを教えてくれるだけです。

もしあなたが同じ目にあった時、冷静に行動してください。

あと、私を知っている皆様。
今の所私は無事です。




当たり前と思っていたものが、実は誰かの力や活躍のお蔭で成立しており、しかもそれが極々自然な毎日として自分の生活に溶け込んでいる物がある。


ひょっとしたら世の中の全部は全てそれで成り立っているのかもと、この頃思う。


自分の力で生きて行くことばかりに捉われて、世の中の仕組みがよく見えていなかった。
あれは盲目の人生の時間だった。


そんなことすら関心を持たず、命と時間を無駄に消費していた。
いや、無駄なものはこの世に何一つない。生きる品質が悪かったのだ。
粗悪な品質で命と時間を消費していたのだ。


『当たり前』がどんな仕組みで動いているのかが分かってくると、自然と感謝の気持ちが芽生えてくる。


それが分からないのも人生の品質。
それが最初から分かっているのも人生の品質。
最初は分からなくても、後から分かってくるのも人生の品質。


説教染みて、なぜこんなことも分からなかったのかと自問自答をする必要はない。
そんなことをやっても新しい何かが自分の中に芽生えることはない。
それは詭弁を使った問答にしかならない。

そんなことに頭を使うよりも、その未熟な自分を受け止めながら自分の一日に真剣に向き合い、立ち向かう方がずっと得るものが多い。


そこが快適な場所であるなら、快適を保つために、人にその姿を見せず努力をしている人たちが必ずいる。


そんな人たちのお蔭で快適な環境と気分が提供されているのだ。


不毛の地は開墾しなければいつまでも不毛であるのと同様、そこが快適な地であるなら快適な地を造るために開墾した人がいて、それを維持している人がいる。


当たり前は当たり前ではないのだ。


その人たちの姿が見えなくても、心の中でその誰かのお蔭だと感謝をする気持ち。
それが私には欠けていた。
















思うことをやってみた。
こうだと思うことをやってみた。


そしたら、最後の最後に予想だにしない終わり方が目の前に現れた。
最初に想像していた着地点とはかけ離れた終わり方だった。


思い知ったのは、考えて想定する現実と、実際にやってみて垣間見る現実は違い過ぎるのだ。



何を考えたかより、何をしたか。

これが大事だと思ったのでやってみた。


結果が重要なのではなく、結論に到達する過程がなのだ。


そして私は明日それに対する尻拭いをしなくてないけない。
なぜなら、自分の行動が撒いた種だからだ。


撒いた種は刈り取る。
明日はその仕事を私は周囲で応援してくれていた人たちの為にやらなければいけない。







思うようにいかないことがある。
願った通りに叶わないことがある。

その終わりの入り口に続く道がある。
そこから次の出口に続く道がある。


この道は一つに繋がった同じ道なのだ。


一点だけを見つめれば全てを失って何もかもが終わってしまったかのように思えてしまう。


でも、これは次の何かに繋がった道なのだ。


人生の道はいつでも未知なのだ。
恐れおののいては何も始まらない。


もう次の物語が始まっているのだ。
変に抱え込んで時間を無駄にしてはいけない。