希少苗字の記事で触れたけど指原姓って意外と旧い家筋かも(笑) | 元気っていいよね

希少苗字の記事で触れたけど指原姓って意外と旧い家筋かも(笑)

AKB48の現在のメンバーの苗字(名字)を調べた時に
指原莉乃(さっしー、さしこ)ちゃんの苗字が希少なのを知った。
実際には川栄李奈ちゃんの川栄姓の方が、さらに希少だったのだけど
どうも指原姓が気になってしょうがない(苦笑)

苗字の多いランキングを調べたときのサイトによれば
『豊後発祥か、出自不詳。現在、大分県に多く特に大分市丹川に集住。』
と、書かれている。

『出自不詳』・・・・・・・

うずうず
うずうず
謎が俺を呼んでるぜ(笑)

という事で調べてみた(笑)

まず、指原家は少なくとも幕末時に豊後臼杵藩(大分県)藩士に名をみる事ができる。
つまり、武家(武士の家柄)なのね。
豊後国臼杵藩(大分県)藩士指原卯兵衛の子で
『指原安三』さんという人は明治期に歴史に名を残したらしく
『朝日日本歴史人物事典』にその名がある。

それ以外だと室町時代の記録に
指原姓が記録されているという話なんだが
出典文献は特定できず。
ただ、この文献も豊後にまつわる物らしいので
ずいぶんと古い時代から大分の豪族だったらしい。

なのだが!

豊後を支配下においていた戦国大名である大友氏の家臣団には
その名が見られない・・・・・。
単に下位の家とされていただけなのか?

また大友氏が滅亡し、徳川政権下において
豊後臼杵藩を治めたのは
斉藤道三/織田信長に仕えた美濃三人衆のうちの一人稲葉良通の子で
稲葉貞通である。
通常、大名家が入れ替われば
家臣団の上層部も同時に移動してくるので
土地の武家は下位に落とされるか、土地を追い出される。
が、幕末時に臼杵藩に名が残っているという事は
つぶされるほどの力はなかったということだろう。

さて、豊後発祥か?という風に
出自が不明ということではあるが
どうも、指原家というのは
豊後発祥とはいいきれない。
まぁだから?がつくのだけどね(苦笑)

原という土地に係わる字があるのだから
地名由来と考えるほうが自然なのだけど
残念ながら大分県はおろか
全国見渡しても”指原”なる土地名はないようだ。

ただし、
2つほど手掛かりになりそうな地名があった。
それが、
福島県会津若松市の神指(こうざし)町と
茨城県笠間市の南指原(なじわら)。

大分県とは大分離れているのだけどね(苦笑)

まず、神指という土地は
神指城という幻のお城で有名な場所で
このお城を作ろうとしたのが上杉景勝。
なぜ神指城というかといえば
作ろうとした場所が神指という土地だから。
さらに、この築城地は
神指ヶ原、あるいは、神指原と呼ばれていたようです。

でもって、関係が有ると断言はできないけれども
茨城の南指原という地名は
もしかしたら、神指原の南に移住した人々で
神ではなく南をつけたものかも。
まぁ、福島県会津若松市と茨城県笠間市じゃ大分離れてるんだけど
位置関係としては合ってるわけ(笑)
実際、戦国期に茨城県笠間市のあたりを支配下においていた
小田氏の記録に南指原という姓の家臣がいるので
やっぱり武家なんだよね。

神指にもどるけど
この土地名は由来が伝わっていて
『新編会津風土記』という記録によれば
平安時代前半(860年頃)源融(みなもとのとおる)家来の
秦氏がこの地に来て、
山王権現の安住の地を探していたところ、
夢の中に老人が現れて、
指を差し「ここより北の林の中に香木があるので、
村人に開墾してもらい、安住の地にしなさい」とあったことから、
香指と呼ばれるようになり、その字が神指となったとのこと。

秦氏というのは
古代史好きなら当然知ってるはずの謎多き古代氏族。

因みに、平安時代前半の会津のあたりは
基本的には蝦夷(えみし)の土地。
なので、由来にある村人も蝦夷の可能性が高い。
そこに秦氏がきて、土地の開拓をしたわけだ。

さらに言うと、平安時代前期の頃は
征服した蝦夷の土地への移住・開拓とあわせて
従来その土地に住んでいた蝦夷の人たちを
いろいろな労働力として
関西以西に強制集団移住させた時代でもあるの。
当然、豊後もその土地の一つ。
また、強制集団移住の際にも
その集団のまとめ役として秦氏がかかわった形跡は多い。

もしかしたら、
神指あるいは神指原から蝦夷を率いて
豊後に移住した秦氏がいたのかも。
そして、移住前の土地名を名乗ったのが
指原姓のはじめかもしれない。

とするとね、

SKE48の秦佐和子ちゃんと
AKB48の指原莉乃ちゃんは
実は同じルーツかもしれないという話(笑)

ま、単なる空想妄想だけどさ(笑)