今年の映画「時をかける少女」の感想です。ネタバレ回避でいきますが、敏感な方は自己防衛してください。


 この記事の中では、原作の筒井康隆「時をかける少女」と、大林版映画「時をかける少女」、および細田版アニメ映画「時をかける少女」を引き合いに出します。

 今回の「時をかける少女」は、原作および大林版と世界観をほぼ共有しながら、一方でハード面においては、細田版の主人公・真琴を演じた仲 里依紗を主役にキャスティングするなど、過去作(この言い方はどうかと思いますが、他にいい書き方も思いつかなかったので…)との関連が強いんですね。


 で、これらの過去作と比べて、今回の「時かけ」は、ある重要な試みをしていると感じました。そしてそれによってこれまでの「時かけ」になかったものを獲得してる一方、同時に失われたものもあると考えています。



 そもそも「時かけ」という作品は1967年に原作が刊行され、(文庫版の解説に書いてあるように)各年代で他の媒体に作品化されています。僕はここに、この作品群をどう扱えばいいかのヒントがあるように思います。

 「時かけ」には、タイトルのとおり少女が登場します。同時に少女のいる学校の風景、つまり「青春」が描かれます。そして「時かけ」という作品が各時代ごとに作られているということは、そこに各時代の青春のあり方が投影されていると考えられるわけです。


 それぞれの時代で「時かけ」が作られ、その時々の多感な年齢の人たちが見に行くという構造。世代によってリアルに感じられる「時かけ」は違うはずであり、個々の「時かけ」は時代の記念碑として、人がそこに青春のリアリティとノスタルジーを託すことの出来る存在となる。

 つまり「時かけ」という作品群は、人がその作品に触れることでノスタルジーを感じ、同時に青春の日々を想起することの出来る、いわばタイムリープの起点として機能する作品だと言えます。


 先ほど挙げた大林版も細田版も、それぞれの時代の若者の空気感みたいなものを描いていて、そこに青春の時期が上手くハマる人はノスタルジーを持って作品に触れられるのではないかと思います。



 さて、前置きが長くなりましたが、ようやく今回の「時かけ」の話に入ります。


 この作品、これまでの「時かけ」と何が違うかというと、まず舞台となる時代が違います。これまでの「時かけ」が主人公の少女が暮らしている時代を主な舞台とするのに対し、今回は少女=あかりが過去にタイムリープして物語が始まります。

 この時点で、「その時々の青春のあり方を投影した映画」という属性とは距離を取っていることになると思います。だから、先に書いたような「この時代の若い人がリアリティとノスタルジーを託せる映画」という部分はこぼれ落ちてしまったのではないかと。


 一方で、これまでは「少女と未来人の恋」を描いていた「時かけ」の構図そのものが逆転しているとも言えます。つまり、少女=未来人となることで、これまで描けなかった「未来人側の視点」を描くことに成功しているのではないでしょうか。そして「時かけ」における未来人の視点、未来人の痛みとは「全てを断ち切って残していく痛み」です。

 またネタバレになるので多くは書けませんが、ストーリーの展開的にきちんと従来どおりの「残される少女の痛み」を主人公に背負わせることにも成功しています。


 少女=未来人とし、従来の「時かけ」の構造を逆転することで、少女的な「残される痛み」も、未来人的な「残していく痛み」も、両方を芳山あかりの中に表現しようとしたこと。これが今回の「時かけ」に込められた試みの重要性だと僕は思いました。



 いわゆる時間警察的な人物の行動が甘すぎるとか、原作や大林版とどこまで世界観を共有してるかのラインが曖昧とか、タイムリープ表現にちょっと引いてしまったとか、ゴテツさんのくだりはもうちょっと広げて欲しかったとか、色々と気になった部分もありました。

 が、僕は何よりもこの新しい試みに敬意を表したいです。「青春の投影」といえば細田版はまだ十分にアクチュアルだと思いますし、こうして別アプローチに挑戦したということに意義があるのだと思います。