しかし、現代の若者は、性を情熱からさえ解放しようとしているのである。
快楽には金がかかり、これは若者には不可能である。
 
情熱には一文の金もかからないが、命をかける覚悟がなくてはならない。
命をかける覚悟もなく、金も持たない若者が、しかも性を味わおうとするときに残されたものはあたかもピル・セックスのような、観念的な、末梢神経のたわむれになるほかない。
 
性欲の最も盛んな時期に、そうした衰弱した性だけしか若者に与えることのできない社会に、若者が何らかの不満を持つに至ることは、避けられないことである。
 
おとなたちはいまの全学連の行動を、赤線廃止の必然的結果だと言う人もあるが、それは間違っている。
赤線のあったころの日本人はまだ素朴であった。
 
赤線による性のはけ口を求めた青年たちは、同時にまた情熱の可能性を一方に残し、それを純化する術を知っていた。
しかし情熱の根元が閉ざされたときには、われわれは金のない快楽、すなわち睡眠薬の快楽に無限に近づくほかないのである。
 
高いと言ってもしれたものであるあの白い丸薬を飲むことからくる現実逃避の快楽に、あらゆる性の形態が接近してゆくのは、現代の最も危機的な現象であると言えよう。
 
では快楽とは何か。
日本は西欧諸国に比べると、まだ快楽、金で買えるというものに、アジア風な特質をわずかに残している。
その最高のものは花柳界である。
 
私は自分のポケットマネーで花柳界へ行くことはできないが、人に招かれて一流の花柳界へ行くときほど、日本人の快楽というものの洗練された、一夕の充実した、しかも何の意味もない楽しみにふけることができる機会をほかにもたない。
 
花柳界では男というものは地位と金とでもって評価され、芸者たちはすべての男を三種類、すなわち客と、客色と、情人(いろ)に分ける。
 
そこで彼女たちは客のためには快楽サービスをし、客色のためには多少の快楽と、多少の情熱を支出し、情人のためには情熱と、場合によっては彼女自身の金を支出するのである。
 
このようなみごとにオーガナイズされた快楽社会は、日本ではまただんだんに滅びて行きつつある。
もはや銀座のバー、そのような洗練された快楽を意味しない。
 
あの一流の花柳界が持っている雰囲気、その洗練された会話、その美しい女たちの人工の極を尽くした化粧と、衣装と、接客技術。
 
また色気を超越したばあさん芸者たちの味のあるソフィスティケーション、これらが快楽を構成する重要な要素である。
 
人々はまさに金をもってこの快楽を買う事ができる。
ばあさん芸者を一人と、年増芸者を一人と、若い芸者を一人と、半玉を一人と、四人を自分のまわりにはべらせれば、女というものの持つすべての要素、愛らしさ、清純さ、美しさ、成熟、粋な意地の悪さ、セックスを超越した女のおもしろさ、あらゆる角度からの女が自分を取り囲み、その性の万華鏡の中に身を置いて美酒に酔いしれながら、快楽のまっただ中にいると感じることができる。
 
京都では、いいお茶屋に行くには立派な紹介がいり、紹介は地位を意味し、金を意味する。
そして若者がこの禁じられた快楽に近づくためには、自分の若さの魅力をもって、何かのチャンスで芸者の情人(いろ)になるほかない。
 
私はそういう青年の幾人かを知っている。
芸者の情人になるということの独特の楽しみについては、察しのつかぬことではない。
それはシニカルな、世間を裏側から見た楽しみであり、この世の権力や金力のぶざまな裏側に目を開かれながら、同時にそういうことを商売にしている女の真心に触れる楽しみであり、青年にとって最も毒のある快楽である。
 
なぜなら、芸者の情人になることによって自信を持った青年は、社会の表側に立つということのばからしさを、先に知ってしまうからである。
 
そして一番悪いことには、権力、金力によって得られる表側の快楽の裏側に巣食うという快楽は、実は快楽というものの一番の残り滓(かす)であり、ご馳走の余り、すなわちホテルで行われるぜいたくなビュッフェ・パーティーのお客が食べ残した、残りのコールド・ビーフやコールド・ロブスターを頂くのと同じことになってしまうからである。
 
よしそこにまごころの幾分の味があるにしても。
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