三島由紀夫のことば「快楽について」① | 中谷良子の落書き帳

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核武装・スパイ防止法の実現を

快楽という言葉は、私が子供のころの子供版の「アラビアン・ナイト」の中で、初めて発見して言葉であった。
私にはその快楽という言葉が気になってしかたがなかった。

大きな宴会がある、女たちがいる、ご馳走がある、お酒がある、どれもこれも子供には禁じられているものばかりである。

そのうえ登場人物は快楽のためには、ときによっては死をかけることをもいとわないのである。
かくて、快楽という言葉は曖昧模糊たる禁止の意味をもって、最初の印象を植え付けられた。

わけはわからないがそこには何かの核心があった。
それが性につながることは、子供にもおぼろげながら予感されたのである。

性がなぜ快楽を意味するか、性と快楽とのつながりの不可思議が、長いこと私の謎であった。
しかし、「アラビアン・ナイト」風のはなやかな雰囲気の中で、人生の最初の快楽を学ぶ人間は、少なくとも近代社会にはいない。

男にとって性は快楽としてではなく、不安と恐怖と、孤立感と、ある不可解な、不気味なものの襲撃としてあらわれる。

それが快楽に結びつくためには、長い道程がいるのである。
なぜなら、近代社会では快楽の成立条件には、まず金が必要とされるからである。

われわれはおそらく性と快楽を結びつけるために、働き、努力し、出世しようと望むのであろう。
性が義務的なものになり、あるいは死んだ冷たいものになることを、近代社会は絶えず強制しているからであり、それをのがれて性を、あのすばらしい華麗な快楽に結びつけるには、その中で、まずきびしい生存競争に勝たなければならないからである。

いまの若い人たちは、セックスから快楽の要素を取り除くことに熱中しているかのように見える。
最近の週刊誌で、二人の男と同棲している女性の話が出ていたが、その女性が人間のコミュニケーションというものをどう考えているかについて、実におもしろい発言をしていた。

彼女は
『週刊誌は友達の噂話であり、テレビは友達の家の情景であり、ラジオは友達との会話であるような世の中で、どうして他人とのセックスがそれと同じものでないわけがあろうか』

という意味のことを言っているのに、私は深く心を打たれたのである。
このことについてはまた後に述べよう。

私は、最近「ロミオとジュリエット」という非常によい映画を見た。
シェークスピアの舞台にも、映画にも、いつもあくびを禁じ得ない謹慎な私であるが、このゼッフィレッリの映画「ロミオとジュリエット」だけは一瞬の退屈もなく、場面から場面、行動から行動が、生命の輝きと跳躍に満ちてつながれていった。

そこで語られているのはただ一つ、情熱だけであった。
スタンダールのいわゆる「情熱恋愛」がこれほど映像化されたことは、おそらく初めてではあるまいか。

主役が十六歳の少年と十五歳の少女であるということもあるが、彼は長たらしい会話をかわすのももどかしげに、顔を見合すなりたちまち、まるで美しいつがいの小鳥のようにチュッ、チュッ、チュッ、チュッと、すばやいキスをかわすのであった。

そこには快楽がひとかけらもないかわりに、情熱があった。
そして若さが性に対して持ち得る一番よいものは、こうした盲目的な無知の情熱であり、おとなたちがそれを美しいと言うのは、すでにおとなたちがその情熱にひそむ苦しみを忘れていたからである。

おそらく、性をめぐって情熱と快楽とは正反対に位するものであろう。
ごく簡単に図式的に言えば、若者の性は最高の表現をとるときに情熱になり、おとなの性は最高の表現をとるときに快楽になるということができよう。

$Jellyの~日本のタブー~


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