三島由紀夫のことば「作法とは」② | 中谷良子の落書き帳

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核武装・スパイ防止法の実現を

人の心はどんな親しい友人の仲でも、長年の付き合いの仲でも、お互いにわからない部分を残している。
そして、言葉はそれを繋ぐ橋であるが、その橋にはちゃんと渡れるだけの設備があり、欄干がつき、擬宝珠がついていなければ橋とはいえない。

それがすなわち作法である。
軍隊はその点でしゃっちょこばった作法で固められた、作法だらけの世界であるが、この作法は、単に軍隊生活を円滑に運用するばかりでなく、人間の機敏な行動や、きっちりした礼儀正しい作法は、男を男らしく見せるのに役立っている。

サイケデリックな格好をして、体をクニャクニャさせて「チャオ」と言うのと、不動の姿勢で挙手の礼をするのでは、軍国主義と民主主義以上の大きなギャップがある。

なぜならば、それがコミュニケーションの断絶とコミュニケーションの円滑との、ふたつの対照的な問題を提示しているからである。

われわれは、もし軍隊のような戦闘目的に向かって行動するという部分を、われわれの生活の中に少しも持たないならば、作法などはひとつも必要ではない。

そして、もし世間に反抗し、世間に完全に孤立して人々との交渉を断とうとするならば、「お早うございます」もいらなければ「有難う」もいらないのである。

しかし、よくしたもので、政治運動をやる学生は政府に反抗し、権力に反抗するにもかかわらず、そして大学の総長に向かって「オイ、君」などというにもかかわらず、自分たちの中では先輩・後輩の序列にはかなりやかましい。

何故ならば、人間の支配力、権力欲が多少とも動くところではその作法が要求され、その作法をうまく守ることによって、また自分も権力を獲得することが出来るということを、自然に学んでしまうからである。

したがって、人間関係の作法のやかましさは、革新陣営といえども、おさおさ保守陣営に劣らない。
普段は政府を口ぎたなくののしる学生たちが、研究室の中でどれほど弟子たちにやかましい作法を要求しているか。

そしてまた、お茶運びの助手がお茶の入れ方が悪かったということで、どれだけ損をしているかを知れば、思い半ば似過ぎるものがあろう。

さて、これでも解るように、男の世界はスポーツに似ている。
ルールを守った上で勝敗は争われるので、根底にある争いがそれだけカバーされるわけである。

しかし、女の世界はこの点で根底的な争いというもの、権力の争いというものが少ないために、かえってスポーツのルールが乱される場合が多い。

スポーツのルールが乱されることが自分の生存を脅かさないからでもあろう。
在外公館の夫人連の間の厳しさは、女がやはり政府の辞令を受けて、外交官夫人として外国に行くところから生まれて、男の世界の模倣をつくってしまうからであろう。

これは最近流行の大奥の生活を描いた小説や芝居にもよく見えるとおりである。
しかし、普通の家庭にいる夫人たちは亭主を楯にして、その点ではどんなにひどいことも平気で亭主に向かって言えるように、世間に対する作法も亭主の仕事をのぞく限り、いい加減でごまかすことができて、しかも自分に害が及ばないことが多い。

作法はこのように自分の身を守る鎧なのである。
そしてそのルールを必要としない人たちは、作法を必要としないといっていいだろう。

そして、その作法を必要としない人たちを動物と呼ぶか、或いは人間の自然の姿と呼ぶかは、その人々の考えによって違うであろう。

そして私はといえば、私は糊の利いた裃の肩衣が美しいように、男を美しくするものは作法であるというふうに考える人間である。

以前、夏のさかりに熊本を訪れ、有名な道場の龍驤館で、少年たちと剣道の稽古をしたのち、全身にしたたる汗のまま、正坐をして、先輩格の少年が、はりさけるような声で、

『神ぜえーーん』

と号令をかけ、神前に礼をしたときのさわやかさは忘れがたい。
それは暑熱の布地を一気に引き裂くような涼しさだった。

私は作法というものが、どんなに若者を美しくするか、それに比べて、作法のない世界に住んでいる若者たちは、どんなに魅力がないか、という実例を見る気がした。

$Jellyの~日本のタブー~