三島由紀夫のことば「作法とは」① | 中谷良子の落書き帳

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核武装・スパイ防止法の実現を

剣道は礼に始まり礼に終わると言われているが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶったたくことである。
男の世界をこれは良く象徴している。

戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。
しかも、どちらが大事かということになると、剣道は建て前上、作法・礼法を最も重んじている。
これは何故であろうか。

昔から騎士道の闘いがそうであるように、男の世界の闘いはまず礼法から始まった。
礼法には、勿論モラルがこもっているが、同時に礼法はスポーツのルールである。

ルールを守らないスポーツは軽蔑されて、闘いそのものもはんそくの敗北に終わってしまう。
男の作法は、ただ相手に従い、相手の意のままになることが目的ではない。

しかし、作法こそどうしてもくぐらなければならない第一前提であるにもかかわらず、現代に於いては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま相手の心に通用するという不思議な迷信がはびこっている。

アメリカ流のフランクネスが、どのようなビジネス上の罠を隠しているとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、にっこり美しくほほえみかけるやり方にだまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思わぬ仕事の上の損失をこうむった例は枚挙にいとまがない。

何故なら、野心家こそ作法を守るべきなのであり、また、人との関係に於いても、普段、作法を守っていればこそ、いったん酒が入って裸踊りのひとつもやってのけたときには、いかにも胸襟を開いたように思われて、相手の信用を勝ち得ることができる。

普段からだらしなくては、だらしがない姿を見せても人がツーともカーともこないであろう。
そのためには男の威厳(ディグニティー)を保つ作法があり、初めてその裏に人間性の伸びやかさ、人間性の自然さが垣間見られて、そこで相手の信用を博し、同時に仕事の戦いも成功をおさめるというわけである。

最近の電話の掛け方のひどさには、いつも驚く他はないが、小さな言葉の使い方一つにでも、相手の気持ちを察することのデリカシーのなさは日本中に普及している。

たとえば、つまらないことだが、われわれ小説家のところへテレビやラジオが、脚色・上演を頼みに来る場合には「あなたの原作を取り上げることにしました」というのが普通になり、この言葉は学生間にも普通になって、どこかの学校で、一日二日の学生の公演をやる場合にも、私の作品は「取り上げられる」のである。

取り上げ婆さんではあるまいし、人の作品を使って、「取り上げる」もないものである。
そういう言葉のはしばしは作法の一番大事な部分であるが、作法ひとつの扉とすると、言葉の小さな使い方はその扉の蝶番にさされる油のようなものである。

そして、いまでは油もささずにギーギー、ガーガー扉のあけたてがひどくなりすぎる。
言葉を知らないこともそのひとつで、私のところへ来たある学生の如きは、一時間ほど話して、帰りがけにまわりの友達を顧みて「そろそろ時間ですから、もうお邪魔しましょうか」と言ったのには驚かされた。

彼は「おいとましましょうか」という意味で言ったつもりらしいのである。
人間の真心がそのまま相手に通じると思うことはまったくの間違いである。

$Jellyの~日本のタブー~