考える | おもさんの雑感

考える



おもさんです^^

今日から明鏡塾第三期がスタートしました。
これから半年間、よろしくお願い致します。

さて、最近の雑感を。

例えば治療のやり方を教わるというのは、積極的にそれについて考えるということを放棄しているということになる。もちろん、その背景に何をどうしたいか?という目的がある場合、教わることも一つの手段として有効である。しかしながら、「何かを教われば、何かが変わる」というのは、御門違いである。

そういった意味では何かを教わるというのは、積極的にその事から遠ざかっていることなのである。その事については、自分自身で考えるしかないのだ。
そして「考える」という作業は、要素を抜き出して組み立てることではなく、その「考える」対象の中に飛び込むということなのである。
であるから、「考える」ということも感性にそのまま結びつくのだ。
考えるというのは、現実と切り離して、頭の中だけでの作業であると思っている人が多いが、実際はそうではない。
例えば、治療について「考える」というのは、自分、あるいは患者が治る実際、あるいは治らない実際にぶつかり、理屈の通じない現実と向き合うことでしか考え得ない。それを外側から、理論展開して語ったところで、それは現実と何の関係もないのだ。
物事を周りから眺めるのではなく、その中に入り込み、自身の感性でもって答えを導きだすという全人的な作業が「考える」であるのだから、そこに画一的な方法論は存在しない。
それこそ、自分自身で作り上げるしかないのだ。
物事にどのように向き合うかということが、「考える」に直結し、その事によって何かが分かるようになったり、出来るようになったりするのである。
物事に向き合う姿勢は、教わる事は出来ない。
よく見て、それを盗んで、自分で試していく他ない。

そういった意味で、教わることというのは、積極的に「考える」を放棄し、出来ない道へ進んでいくことになるのだろう。それは前述したように、「教わる」ことが目的化した場合である。
厄介なのは、その事に気づかないまま、学ぶことを続ければ続ける程、自身の成長から遠ざかる上に、努力をしたのに何も変わらないという現実にぶつかり、途方に暮れるということを繰り返すことである。