東京ワークショップ 三日目 | おもさんの雑感

東京ワークショップ 三日目

おはようございます、おもさんです。

ワークショップも中盤にさしかかり、ますます場のエネルギーが高まりつつあります。

一日目の様子は こちら
二日目の様子は こちら


三日目ともなるとあちこちで「煮詰まる」という現象が生じ始める。

この「煮詰まる」とは何なのだろうか?

おそらくワークに最初に取り組んでいる時には、ワークの形は分かっても

何に取り組んでいるのかが分からない。

つまり、表面的な形を真似することは出来たとしても、果たして今自分は何をしようとしているのか。

自分自身を客観視し、自分の取り組んでいることすら分からなくなるのが「煮詰まる」といった現象につながるのではないか。

ということは、「煮詰まる」といった現象は意識の産物だ。

例えば、公園でハトが餌を探しているとする。あちこちに人がいて、餌をまいているが
あまりにも他のハトが多すぎて、なかなか餌にありつけない。
あっちにいってもこっちにいっても、先客がいてどうしようもない。

さて、このハトに「煮詰まる」といった現象は生じるのだろうか。

おそらく生じないでしょう。

なぜなら、「腹が減っているのだから、食べたい」という欲求のまま動いているだけだから。

他のハトがたくさんいて、何度も餌にありつくのを失敗したとしても、関係ないだろう。

「食べたい」という生命としての本能が、ハトを突き動かしているからだ。それ以外に何もないからだ。


「煮詰まる」という現象は、自分自身を客観視するからこそ生まれるものだ。その多くは自分のやり方を振り返るのだろうが、おそらくそうではない。そもそもが違うのだ。

私は「煮詰まる」を経験し始めた時に、意識的に「煮詰まらないとは何か」と逆のことを考えるようにしている。

今の自分に何を付け加えたところで、余計に煮詰まる材料を増やすだけだ。

だから、あえて「煮詰まらない」を前提に物事を考え直してみる。

その時に、重要なのが「自分以外」の存在である。

自分が煮詰まっているのだから、あえて自分以外のものに意識的になってみることによって、何かしらの突破口が見えるのかもしれない。

春の武禅でそのことを神秘的に体験した。

あの出来事以来、他者は全て「師」であり、「神様」だ。

私はそう捉えている。



<身体塾>

・全身のストレッチ
・胸骨操作
・腕のねじれとストレッチ
・脊柱を感覚していく
・ドミノ倒し



三日目の身体塾は全身のストレッチから始まった。

文字通り、全身をストレッチしていく。

それはパーツパーツをのばす準備運動的なものではなく、身体を一気にのばしてしまうのだ。

このワークで、身体のつながりがより知覚される。そして、自身の身体の中でどこがのばせていないか、感じることが出来ていないか知る事ができる。

上肢に関しては、肩甲骨から肋骨にかけてがもっとも知覚しにくいポイントなのではないか。

それは他の参加者の様子を見ていると、明らかにそこが抜けているのが見て取れるからだ。

当然自分も穴だらけ。感覚できる部分が増えてくると、逆に全く感じ取れていない部分が明確になってくる。それを発見して色々工夫して取り組むのは楽しいものだ。


腕のねじれとストレッチは、強烈にハードだった。

腕を外向き、もしくは内向きに思いきりねじりながら手を遠くにのばしていく。

その際に大切なのは、「どこを止めるか」ということ。

腕をねじりながら遠くのばすと、自然と身体は前傾してしまう。それでは、ストレッチにはならない。であれば、身体のどこかを止めておく必要がある。

動かす部分と止める部分の意識化。頭を使うわけだ。文字通り、体操であり、頭の体操でもある。


『ねじる時に、大切なのは指やで。どの指をどの方向に持っていきたいか。漠然とさせないで、そこを明確にしとかなあかんよ』

これは非常にいいヒントだった。

中枢部からの動きがあれば、末梢からの動きもある。

意識の置き所を変えると、やはり運動の質が変わる。

身体は本当に面白い。


「脊柱を感じる」は、床と壁バージョンで行った。

背骨の一つ一つを知覚していくためのワークだ。

それに取り組んだ後は、実際に感覚できているかの検証。

床に長座位となり、相手に背中を押さえてもらう。

そこから、尾骨~仙骨~腰椎~胸椎~頸椎と順に床につけていくのだ。

押さえてもらった背中を動かしてもビクともしない。それにとらわれずに背骨の一つ一つを床についていくと相手に力が伝わり、相手は押さえきれず倒れてしまう。

同じような動きなのに、相手への伝わり方が全く異なるというのも本当に興味深い。


パートナーがだいぶこのワークに苦戦していた。結局、背骨がほとんど知覚できていないのだ。
動かす場所が分かっていないから、迷子状態。

運動がどうこうでなく、何をしようとしているのかを観察する事が大切だ。

でなければ、形だけを真似る事になり、優れた身体の動きはいとも簡単に形骸化してしまう。

ガイドをしながら何回か行うと、だいぶ何をしているかが分かってきたようだった。

「自分が何をしているか?」を知る事は思いのほか難しいものなのだということを再確認した。




<関係塾>

・正面向かい合い
・相手の流れに乗る(腕をふってリズムをとっている相手の流れをつかむ)
・相手と歩調を合わせてからの「どうぞ」
・対面し、歩いてくる相手を誘導
・縦系の連動


三日目の関係塾ともなると、正面向かい合いで色んなことが見えてくる。

こちらに向かう意思の強さ。

意識が散った瞬間。

お互いの意思が混じり合い、自然と動きが創発されるようなゾクゾク感。

腑抜け。

その場を動けない程に強く向かってくる相手の存在感。


自分の意識が自然と「相手」に切り替わっているのが分かる。

2年前に初めて参加した時は自分本位で「正面ってどこ?」となりしどろもどろになっていたが、今は相手が教えてくれるのだ。 

人が好きになる。ラブリーだ。


「相手の流れに乗る」は腕をふっている相手の流れに入り込んで、その流れを変えてしまう。

言葉にすると、これほどに怪しい物はないのだろう。

宗教のようだ。

でも、ここには宗教とは全く別物だという証拠がある。

それは「感じる」を前提にしているから、実態があるのだ。

実態のないものを信じ込ませるのが宗教であって、それとこのワークは何ら関係ない。

「相手を感じる」から何かがあって、何かが生じるのだ。

そこを信じるか、信じないかとかの話ではなく、そういうものなのだ。

自分の頭が理解できることだけが真実とした場合、目の前で起こっている現象について
全く理解する事が出来ないだろう。
しかし、理解できなくても起こっているのは事実だ。

そして、理解したところで出来ないのも事実だ。

生命体同士の有機的なつながりによって可能になるのであり、従ってこのワークの礎はやはり正面向かい合いなのだ。


先生にリズムについて、一見静止している状態でも流れはありますか?とたずねると

『止まっていても流れはあるで。ただそれはなかなか分かりにくいから、こうして運動をいれてわかりやすくしてんねん』

やはりそうだ。

腕をふるタイミングがどうこうではないのだ。

流れはそこにたしかにある。

そこを感じ取れるかどうか。


相手と歩調を合わせてからの「どうぞ」も同じだ。

相手のもつ歩行のリズム、流れをつかむことが出来れば、「どうぞ」での誘導が入っていく。

それを掴めなければ、どんなに工夫しても相手には単なる違和感として受け取られてしまうのだろう。

「どうぞ」でのポイントは手の使い方だ。

先生に『相手に見える位置に手をだせ』といわれた時に、ハッとした。

自分の手は相手のためにあるのだ。

自分が何かを表現したいから使うのではなく、「相手に」何かを訴えたいから使うのだった。

こういった事が「気遣い」なのであり、やったことに自己満足するレベルを脱する鍵なのだろう。


『このワークに限らず、相手に関係していく時に、絶対に「出来る」と思っていなければあかん。というか、出来んねん。出来ると信じたところでどうもならんけど、絶対に出来んねん。そこを疑ってやってたら出来るわけないやろ』


自分には出来ないかも知れない。

この些細な思いが、実は足かせになっていることが多い。

先人がいるのだから、出来ないはずがない。
出来ないのであれば、何故日野先生にはそれが出来るのか。

それは簡単なことで、出来るから出来るのだ。

であれば、「自分には出来ない」なんていうのは単なる思い込みに過ぎない。

やりたくないというのは、あるかもしれない。

であれば、やらなければいい。それだけの話なのだ。


やりたいという強い目的があれば、「出来るか、出来ないか」なんて関係ない。

出来るのだ。

今の自分には出来ないかもしれないが、確実に出来る物なのだ。

そういった認識が不可能を可能にしていくのかも知れない。



<表現塾>

・正面向かい合い
・3人組で「ワー、ワー」合戦
・口パクでの「オーイ」
・相手に歌を届ける。聞く。(ここはどこの細道じゃ/天神様の細道じゃ)
・相手と一緒に歩いて、方向を誘導する。(左、左!・・・)
・相手に動かされる (後方より両肩を把持され、相手に動かされる。)

正面向かい合いから始まり、エネルギーを爆発させるために
今回は3人組での「ワー、ワー」合戦に取り組んだ。

なむむぎ同様、こちらもいろんな意味で盛り上がった。

なまむぎに比べると、「ワー」というフレーズだけなので、切れ味のあるエネルギーの出し方が重要だ。


再び、正面向かい合いをすると、パートナーをよりしっかりと捉える事ができる。

人間のもつエネルギー同士の化学反応だ。

しかしながら、パートナーには何か隠しているというか変な部分がある。

というより、上品に表現しようとする感じが見て取れるのだ。ちょっと腹が立つ。

こういったことを感じ取れるのも、「ヒト」と「ヒト」という物理的なつながりの現象をこえて、人間同士が交流するからこそのものなのだろう。


相手に歌を届ける。聞く。

このワークでは、「聞く」ことが出来ずに煮詰まる。

聞くとは何なのだろうか?

大方の場合、「聞く」というのが「言葉の意味を理解する」になっている。
となれば、これは「自分の頭の中での作業」だ。

だから聞いていない。

音を拾って、その意味を解釈している。

「相手」の話は聞いていないのだ。

それは相手に歌を届けようとすると、如実に分かる。

まるで岩に語りかけているようだ。もちろん、話して側の伝える意思が弱ければ、聞くもなにもない。 本当に全ては関係性なのだ。


3人一組で、歌い手が伝えられているか?
聞き手が聞けているか?
二人の間に関係や流れはあるか?

これらをジャッジしていく。

私がジャッジ側にまわったときに、二人の応酬を見ていると

二人の間におそろしく大きな壁があることに気づいた。

だから、声は四方八方に飛び取り、全く相手には向かっていっていない。


男女のペアだったのだが、男性の方に「めちゃめちゃ壁をつくってますよ」と突っ込みを入れると

彼はとたんに雰囲気が変わった。これまでの人生を振り返ったようで、自身の経験を少しだけカミングアウトしてくれたのだ。

私はその彼の姿を見て、話を聞いて泣きそうになったのだが、相手役の女性は「そうだよね、分かる分かる」と聞くというより、解釈しているようだった。

彼のトーンというか雰囲気に全くあっていない返答だったのだ。

それに違和感を感じ、二人のやり取りが終わった後に女性に突っ込んだ。

「せっかく彼が腹をわって伝えようとしてくれているのに、その態度はおかしい」と。

何やら彼女もハッとしていたようだった。

その後、お互いにエネルギーを出しまくる工夫をしながら応酬をしていた。

すると、どちらからともなく二人とも涙を流し始めた。

何の涙なのか?

自分の殻が破られたことに対する満足感からくるのか。

いずれにしても、それを導いたのは「相手」の存在だという事は事実なのだろう。

それはさっきとは全然異なる二人の間の雰囲気が物語っている。

素敵なドラマを見せてもらった。



今日の気づきは、

対人関係の中では、自分という存在は「相手」のためにあるという事。

自分の声、手の動き、リズム

全てが相手のものなのだ。

自意識は「相手」によって消してもらう他ない。

「相手」に意識が行く事で、自然と自意識から解放されるのだろう。



ワークショップにはいろんなドラマがある。

色んな人がいて、色んな人生が混じり合うからだ。

あと二日。

何が起こるか楽しみだ。




関係は奥が深い。


読んでいただきありがとうございます。

それでは。