10日。
夫と息子は病院へは泊まらず、家で休んでもらった。
でも、心配で始発に乗って病院へ来てくれた。
出勤する時、ベッドを囲んで顔を覗き込む。
すると、娘はまた目を開けて「行ってらっしゃい」とでも言っているようにしっかりと夫の手を握り、目を見つめている。
これが最後の意識ある娘との「無言」の会話になった。


(写真は娘の顔はカットしたが、しっかりと夫と見つめあっている)

昼間は痰がからみ、かなり苦しそうだったので、何度も痰を取ってもらう。
痛み止めの薬を強くして、 痰がゴロゴロしているものの比較的呼吸が安定してきたので、私も体を休める時間が持てた。
夕方には酸素が低下してきて、鼻チューブからではなく、マスクでの酸素吸入に変わった。
これでないともう呼吸が苦しくて維持できないのだ。
夫と息子は仕事を終えたのだが、1度自宅へ戻り、病院へ泊まる準備をしてから病院へ来るという。
私は不安でいっぱいになり、何度も「何時に到着するの?」と連絡した。
結局二人は21時過ぎに病院へ到着。
それからは、ただただ、娘の呼吸を見つめる。

11日。
日付が変わっても娘の呼吸は安定していた。
血圧は計れなかったものの、脈も触れていた。
夫が眠気を感じてきたので「別室で寝てくるね」と言い病室を出ようとした。
私は何故かとても胸騒ぎがして、今はここに居てよ、何だか呼吸がゆっくりになってる気がする、と言って引き止めた。
その時、あんなにゴロゴロと痰が絡んだ呼吸をしていた娘の呼吸が止まった。
本当に急だった。
今思えば、お父さんどこにも行かないで…
そう言っていたのかもしれない。

嘘でしょう?何で?
もう一度息をしてよ、もう一度。
看護師さんもモニターチェックする。
「心臓、停止してます…」
この時、0時20分過ぎだった。
当直医は居るけれど、死亡確認はどうしますか?と聞かれたが、やはり最後の確認は担当医にお願いした。
到着するまで酸素吸入や点滴、痛み止めは外せないのだそうだ。
先生が到着するまで、私は娘の顔をずっと見つめていた。
娘の目から涙がこぼれていた。
看護師さんにこれは「ありがとうの涙」だと教えてもらった。

午前1時。
死亡確認。
「よく頑張ったね。もう痛くないよね。治してあげられなくてごめんね…」
私は娘を抱きしめた。
まだ温かい頬にキスもした。
遺された家族の泣き声が病室に響いている。

処置をします、と言われて看護師さんに病室を出るように言われた。
悲しむ間もなく、葬儀社を決めなくてはいけない。
親族に泣きながら電話で連絡をしたあと、担当医から今までの経過と死亡届けを受けとる。
そのあと、霊安室へ移動。
安置された娘の顔はほんのりお化粧されていた。
ずっと見つめていたらまだ息をしてるように見えた。

朝方4時。
葬儀社の方が到着し、 病院を出ることになった。
こんなに早朝なのに もう外は明るくて、私は何故か病院から娘を出してやれて少し嬉しかった。
朝の首都高はガラガラであっという間に自宅近くの葬儀社へ到着する。
遺体安置室へ置かれた娘の顔は何だかホッとしたような優しい顔をしていた。
本当に本当に可愛い顔だった。

ありがとう。
私の子に生まれて来てくれてありがとう。

*****

娘が旅立ってもう10日以上経ったのに、まだ何もする気になれない。
私の周りには娘を感じるものが溢れていて、それを見るたびに声をあげて泣いてしまう。
でも、夫と息子は辛いのに出勤しなくてはいけない。
せめて、私はきちんと食事の支度をしなくては、と思いスーパーへ行くことにした。
今日は娘の愛用していた腕時計をして行ってみた。
娘は入院中もずっとこの時計は外さなかった。
娘は理系の大学を卒業し、化学系の会社に就職。忙しいけれど、好きな分野での活躍は娘を生き生きとさせた。輝いていた。
そんな忙しい毎日を一緒に過ごした腕時計をすることで、娘は入院中も「自分」を取り戻していたのだろう。



スーパーではこれは娘が好きだったな…これは娘がきっと食べたがるだろうな…
あぁ、このスイーツは男どもには内緒で二人でオヤツに食べたっけ…
スーパーで泣いてる私、きっと変な人だよね。
乗り越えなきゃいけないこと、いっぱいある。
でもゆっくり、時間をかけて娘のいない毎日に慣れなければいけない。

辛い時間はこれからも続く。
一生続く。
死ぬまで同じ辛さかもしれない。
それでも私は、娘を想って癌と闘って生きていく。