長嶋有
長嶋有という作家が好きだ。
もうすこし正確に言うと、
長嶋有さんが描く男のひとに
すごくちかしい感覚をおぼえる。
長嶋有さんといえば、
「猛スピードで母は」で芥川賞を受賞したことで
聞き覚えがある人が多いだろう。
私の場合は、ちょっと変わっていて、
角田光代さんの文庫のあとがきでだった。

みどりの月 角田光代
集英社文庫
ふだんあとがきは殆ど読まない。
がしかしまれに、
このあとがきなしでは本文の魅力は半減してしまう
と思わせるものがあって、
「みどりの月」の「長嶋有のあとがき」は
私にとってまさに、そうした「あとがきベスト」の
一編なのだ。
「みどりの月」のあとがきの前半の趣旨はこう。
角田さんの描く女の子は大抵イライラしている。
でも時折、本当にイライラしているのか?と疑いたくなる瞬間がある。
別の角田作品では、同じシチュエーションで
ものすごい幸福感を覚えているときと、同時に場違い感を感じているときがある。
そうした、一見ちぐはぐで矛盾した感情があって、
でも実はそのことに長嶋さんも(そして多くの読者も)本能的に気づいているのは
そのどちらの感情も本当なんだということ。
気持ちは多様なのに態度は一種類しか選べなかったりする。
角田さんの凄いところは、そうした気持ちの多面性を、
読者に見せる力のある作家さんなのだ。
いっとき、角田さんの小説をむさぼるように読んでいた時期があって、
その魅力を長嶋さんのあとがきが
ど真ん中ストライクで言い当ててくれたような清々しさが
あったのだった。
そして何より衝撃的だったのは、
気持ちは多様なのに態度は一種類しか選べなかったりする。
という一文。
ああほんとうにそうだ。
まさにそうだ。
そのために、どんな顔をしたらいいか分からなかったり、
相手に自分の本意が伝わりきれていない歯痒さを
どれだけ感じてきたのだろう。
つい最近、文庫落ちした長嶋さんの小説の中でも
似た感覚になる箇所がある。

ジャージの二人 長嶋有
集英社文庫
「ジャージの二人」の主人公「僕」の妻には
他に好きな男がいる。
「僕」は妻に対して、いまだ愛しい気持ちと、
既に自分が見つめられていない切なさと、時々の怒りにも似た感情を
ごちゃまぜにして持っている。
文章自体は淡々としていて、
夏の避暑地で、父と息子「僕」がゆるい休暇を
過ごしているだけなのだけども、
そうした淡々としたトーンに、時折、
愛しさや切なさや怒りといった感情が
ふっ と浮かぶ。
角田さんの描く女の子が多面的な感情を持っているとすれば、
長嶋さんの描く男のひとは、どちらかというと多層的で、
まるで、淡々とした平面の下に、じっと、溢れ出しそうな感情を抑えてる、
といったかんじがする。
角田さんにしろ、長嶋さんにしろ、
ひとことではとても言い表せない、
自分自身でも訳が分からなくなる感情の混ざりあいを
そのまままるごと表現しているのが、
ほんとに凄いなあ、と思う。
そして今気づいたのだけども、
長嶋さんの描く男のひとが気になるのいうのは、
たぶん私自身も、
ふだんの気持ちをどちらかというと
何かの下に押し込めている、
つまりどことなく自分自身に似ている気がするからなのかな
と思い至ったのでした。
http://www.n-yu.com
もうすこし正確に言うと、
長嶋有さんが描く男のひとに
すごくちかしい感覚をおぼえる。
長嶋有さんといえば、
「猛スピードで母は」で芥川賞を受賞したことで
聞き覚えがある人が多いだろう。
私の場合は、ちょっと変わっていて、
角田光代さんの文庫のあとがきでだった。

みどりの月 角田光代
集英社文庫
ふだんあとがきは殆ど読まない。
がしかしまれに、
このあとがきなしでは本文の魅力は半減してしまう
と思わせるものがあって、
「みどりの月」の「長嶋有のあとがき」は
私にとってまさに、そうした「あとがきベスト」の
一編なのだ。
「みどりの月」のあとがきの前半の趣旨はこう。
角田さんの描く女の子は大抵イライラしている。
でも時折、本当にイライラしているのか?と疑いたくなる瞬間がある。
別の角田作品では、同じシチュエーションで
ものすごい幸福感を覚えているときと、同時に場違い感を感じているときがある。
そうした、一見ちぐはぐで矛盾した感情があって、
でも実はそのことに長嶋さんも(そして多くの読者も)本能的に気づいているのは
そのどちらの感情も本当なんだということ。
気持ちは多様なのに態度は一種類しか選べなかったりする。
角田さんの凄いところは、そうした気持ちの多面性を、
読者に見せる力のある作家さんなのだ。
いっとき、角田さんの小説をむさぼるように読んでいた時期があって、
その魅力を長嶋さんのあとがきが
ど真ん中ストライクで言い当ててくれたような清々しさが
あったのだった。
そして何より衝撃的だったのは、
気持ちは多様なのに態度は一種類しか選べなかったりする。
という一文。
ああほんとうにそうだ。
まさにそうだ。
そのために、どんな顔をしたらいいか分からなかったり、
相手に自分の本意が伝わりきれていない歯痒さを
どれだけ感じてきたのだろう。
つい最近、文庫落ちした長嶋さんの小説の中でも
似た感覚になる箇所がある。

ジャージの二人 長嶋有
集英社文庫
「ジャージの二人」の主人公「僕」の妻には
他に好きな男がいる。
「僕」は妻に対して、いまだ愛しい気持ちと、
既に自分が見つめられていない切なさと、時々の怒りにも似た感情を
ごちゃまぜにして持っている。
文章自体は淡々としていて、
夏の避暑地で、父と息子「僕」がゆるい休暇を
過ごしているだけなのだけども、
そうした淡々としたトーンに、時折、
愛しさや切なさや怒りといった感情が
ふっ と浮かぶ。
角田さんの描く女の子が多面的な感情を持っているとすれば、
長嶋さんの描く男のひとは、どちらかというと多層的で、
まるで、淡々とした平面の下に、じっと、溢れ出しそうな感情を抑えてる、
といったかんじがする。
角田さんにしろ、長嶋さんにしろ、
ひとことではとても言い表せない、
自分自身でも訳が分からなくなる感情の混ざりあいを
そのまままるごと表現しているのが、
ほんとに凄いなあ、と思う。
そして今気づいたのだけども、
長嶋さんの描く男のひとが気になるのいうのは、
たぶん私自身も、
ふだんの気持ちをどちらかというと
何かの下に押し込めている、
つまりどことなく自分自身に似ている気がするからなのかな
と思い至ったのでした。
http://www.n-yu.com