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5/5 追記:ロシア語通訳のTYさんが忙しいところ、訳を付けて下さいました。
私のポンコツな聞き取りとは違って、素晴らしい訳なのです
「ぷるみの動画作成ブログ」のぷるみさんがあげてくださったニコニコ動画にコメントで入っています。→字幕にしてくださいました。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm26123075 ←前半
http://www.nicovideo.jp/watch/sm26123268 ←後半
http://plumi530.blog.fc2.com/blog-entry-483.html
さすがプロの技です!魔法のように素晴らしいです。
ありがとうございました。感謝申し上げます。
何度リピートしても聞き取れないので、分からないところを教えてもらえませんかと下訳と動画を見て頂いたところ、訳をつけて下さいました。ご苦労をおかけしてすみませんでした。
私のひどい訳は大間違いを一部修正しました。正確な訳はニコニコ動画に入っていますのでそちらをご覧ください。
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プルシェンコ夫妻のインタビュー動画の聞き取りに挑戦しました。
「まだみんな家にいる」という30分の番組です。
動画→https://www.youtube.com/watch?v=W4fTX3Ua8iE
新しいシーズンに復帰するとかプログラムはとか新しい情報についてではなく、これまでのことについて語っています。
サーシャ君のこと、家族のこと、コーチのこと、ヤナさんのこと、オリンピックの時のことなどです。
聞き取りは完璧にはほど遠く、**とか??とか(もじゃもじゃ)と書いてあるのは聞き取れなかった部分です。
自分用のメモとして残します。
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今日は番組「まだみんな家にいる」で喜びと満足をもって
エブゲーニー・プルシェンコとヤナ・ルドフスカヤのお宅にお邪魔しています。
-おはようございます。
プル:おはようございます
ヤナ:こんにちは
プル:サーシャ・エブゲーニヴィッチ!こっちにおいで。
サーシャ・エブゲーニヴィッチ!パパのとこに早くおいで。
-彼はもう何歳になりました?
ヤナ:サーシャは2歳3か月です。
プル:彼は将来スポーツマンになります。
彼はとてもスポーツが好きなんです。
サッカーをするの好き?
サーシャ:好きじゃない。
プル:いったいどうして好きじゃない?
ヤナ:彼らは毎日サッカーの練習をしてるんです。
プル:4歳になったらフットボールチームに入れるつもりです。
ヤナ:7歳か8歳でバルセロナのサッカーの子供キャンプに行かせようと思ってます。
プル:サッカーをやらせようと思う。間違ってもフィギュアスケートはさせない。フィギュアスケーターが家族に一人いれば十分だ。
-どう考えますか?あなた達が持っていたような教育の必要性を保障しようとしますか?両親に(***)可能性がない時(←よく聞き取れない)あなたには何が足りなかったですか?
プル:私はとても早くに7歳で両親から離れて一人で最初の試合に出ました。もし子供が早くに試合に出たなら、7歳で両親から離れて一人で試合に行ったおそらく唯一の男の子です。両親から離れてヴォルガグラードからサンクトペテルブルグへ行き、約2年住みました。私は早くに成長しました。早くにお金を稼ぐことを覚えました。私には自分の目標がありました。ママは私にオリンピックで優勝する、世界チャンピオンになるようなすばらしい選手になるという目標をたてました。これらの目標は徐々に達成しました。たくさんトレーニングし、たくさん練習しました。
(お父さんの映像)
ビクトル・プルシェンコ(父):とても厳しい女性です。
-プルシェンコの父、ビクトル・プルシェンコは、ヤナをとても厳しい女性だと言うだけでなく、自分の妻についてもそのように言う。-
-ママがフィギュアスケートに導いたのですか?
そうです。ママがフィギュアスケートの主導権を持っていました。なぜなら私は病気をしたから。両方の肺がひどい肺炎でした。病院に入院したけど、ママが連れて帰った。ママはNOと言った。
なにか特別な方法で治したんだ。リンクに連れて行って 私は少しづつスキーで歩き始めた。4歳でママは私にスケートをさせた。
私の最初のコーチ、タチヤナ・ニコラーエヴナ・スカラは私を見て「この女の子を私の生徒にする」と言った。私は「僕は女の子じゃない」と言った。その時長い髪をしていたんだ。とても長い髪。ママはなぜか僕を長い髪形にさせていた。ちなみに両親から離れてペテルブルグに行ったとき、最初にやったことは髪を切ること。すぐにすごく短く切った。
タチヤナ・ニコラエブナ・スカラは私を生徒にして、学校に入れた。ありがたいことに、彼女はヴォルガグラードでフィギュアスケートの学校を開いたんだ。
94年私はボルガグラードからサンクトペテルブルグへ行った。学校が閉鎖されたから。ヴォルガグラードのフィギュアスケートの学校はロシアで一番強い学校の一つだった。男子も、女子も。とてもたくさんの子供がいたけど、残念ながら学校が閉鎖された時、彼らは行かなかった。つまり両親達はモスクワやペテルブルグや他の地域へ行かせなかった。タチヤナ・ニコラエヴナ・スカラは・・「こんにちは」 (カメラに向かって呼びかけてる) 新しいオリンピック・チャンピオンを育てている。
-学校は息を吹き返した?
そう。息を吹き返した。もしかするとヴォルガグラードにはもうひとつリンクを建てる必要がある。なぜならとても多くの数の子供が練習してるんだ。
-コーチがあなたを生徒にしてからどうしたのですか?
翌日にはスケート靴で立った。習い始めて1か月半で2年、3年習っている子たちと試合に出た。16人中6位だった。4日後には開脚ができるようになった。
-何日後に?
-4日後に開脚(ジャンプ)をやった。
ママは柔軟体操をさせて、足を延ばすのは厳しくて私はヒステリックだった。痛かったから。言うまでもなく痛かった。
ヤナ:ママは男子で最初にビールマンスピンをすることを夢見ていたと言ったんです。
実際最初の一人になった。
プル:ママはとてもしっかりとした人で。
私のチーム皆にとても感謝していてありがとうと言いたい。ママ、パパ、コーチ達、ヤナに。
-誰が最初に****(←ききとれず)
ビクトル・ワシーリヴィッチ・プルシェンコです。(父)
肯定的にではないけど。
「そんな女の子がするようなこと。滑ったり、回ったり。。
サッカーとかホッケーにしろ」と。
実際私は他のスポーツはやりたくなかった。
-ママの職業は?
ママは裁縫師。
パパは建築労働者、大工、石工、すべての職業。
うちにはなんでもあった。家も、車も、ダーチャもあった。(郊外の別荘:ロシア人は皆もっていて、そこで夏に野菜をつくったりする)そういう中間的な、普通の家族だ。
私には姉がいます。
-家族の経済力はどうでしたか?
ソビエト時代には全てのトレーニングに対して国がお金を払っていた。だから唯一払ったのは、スケート靴だけ。それともちろん衣装。出演する時の衣装はすべてママが縫った。
ソビエト時代には委託販売の店があって。(←聞き取りがあやしい)
大きな布を広げて(←もじゃもじゃ聞こえる)
よくママと話しただけど一番おもしろかったのは
「どうしてママは試合の前の夜中に衣装をつくるの?どうして1週間前、1ヶ月前に作らなかったの?もうプログラムは全部用意できてるのに。」
「どうしてかわからないけど、インスピレーションの女神がこないのよ」
「僕はそういう生活リズムはないんだけど」
完全にうつらうつらして横になっている。それをベットから出して床に寝かして大きさを測って。。
(うつらうつらしてるところ)
朝になると衣装が出来てる。
(ちびプルさん。お母さん裁縫師だから一晩であっと言う間に衣装つくっちゃったのね。どれもいいデザイン)
-思春期に抗議することはありましたか?あなたは出来るすべてをフィギュアスケートに捧げたと言いましたね?
私は一度も自分でスポーツを終わらせようとしたことはない。
でもヴォルガグラードではそういう時があった。
私ははやく前進してスケート靴のサイズが合わなくなった。(←もじゃもじゃ)
将来性のある選手にフィギュアスケート連盟はスケート靴が支給していた。私もその一人だった。彼らはとても厳しかった。
最初のコーチの時、足を擦って血が流れて、滑ることが出来なかった。
二人目のコーチ、ニコライ・マカレーエフは厳しいコーチだった。とても厳しかった。
彼は(****聞き取れず)フィギュアスケートにあまり関わっていなかった。彼には友達がいて、彼らは学んだ。
(その友人は)基金があって、偉大な専門家で、驚くべき人物。
ある時、こう言った。「ミーシャ、ヴォルガグラードに学校を作る」「そこにフィギュアスケートのコーチを集める」
聞いてコーチを集めるってどういうこと?と思った。(もじゃもじゃ)
コーチは実践的な経験はなかった。(みたいなことを言ってる・・)
******
(フィギュアスケートの実践がない人がどうやっておしえるの?とインタビュアーが驚いて質問している。)
彼はテクニックを教えた。
-自分で跳ばないのに?
いえ、彼は私たちに身体的な練習を与えた。私は7歳で10キロまでを悠々と走れた。
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*******
これらの練習は私を強く押し出し、基礎になった。
ヤナ:13歳ですでに3回転半跳んでいた。
-少年にフィギュアスケートをやらせたのは健康のためでしたね?
ヤナ:そうです。
スケート靴が使えなくなって、足を怪我したところからもう一度続けてください。
ニコライ・マカレーエフは私が怪我している時ジャンプを跳び始めるように言った。でも新しいスケート靴で最初の日にジャンプを跳ぶことは出来なかった。すると彼は急に語調が変わって、叫び始めた。「悪いスポーツマンだ」「そのスケート靴でふさわしくない」とかなんとか。
私はリンクの隅にいるママのところへ行って「もうこれ以上やりたくない」「こんな侮辱はいらない」と言った。
「あなたに賛成する、行きなさい」と言われた。
私はスケート靴を置いて「ありがとう。僕にはふさわしくない。もう見ることはない。」と言った。私は7歳か8歳だった。
1週間一人のコーチから電話はなかった。
ママは「もしかして戻る?もしかしてもう一度滑り始める?もしかしてもう一度関係を立て直す?」と聞いた。
1週間後ミハイル・フリサンフォービッチがママに電話してきて「タチヤナ、彼を練習にもどしてください。私は彼がいなくて寂しい。」と言った。
彼は、練習にならない。許しを乞う。もちろん、もう二度としないと誓う、と言った。
ヤナ:興味深いことというのは、ママがいつも彼が1位になるよう言っていたこと。
ヤナ:(ペテルブルグに)来たのは何歳だっけ?13歳?
プル:13歳。13歳の時ジュニアの世界選手権で6位になった。
ヤナ:13歳の少年が6位なった。
プル:1500ドル賞金をもらった。
1500ドルと言ったら大金で、やっと手にすることができた大金だった。
でも実際は足らなかった。
かつては居住証明書が必要だった。
-仕事を見つけるために必要だったんですね?
ママは働くことが出来なかった。縫ったり、店やスーパーで床を洗ったりする仕事には居住証明書が必要だった。
私は喜んで小切手を持ってドアを開けたら、ママはばらまいて部屋から出て行った。
「ママどうしたの?何が起きたの?」
「入りなさい」「何を満足してるの」と聞いた。
お金があればコートを買ったり部屋のお金を払ったり色々なものを買えると思った。
ヤナ:すぐにママに何か買いたかったのよ。
プル:ちょっと食べるのにも何か買いに行けるのに。
ママは言った。「このお金は必要ない。あなたはとても悪いことをした。」
何が悪いの?初めての選手権で6位になったのに。そこには10位とか15位もいつのに6位はすごいことだよ。」
(ママ)「これはとても悪かったわね。」
私は実際こんな厳しさ、こんな批判を聞くのが辛かった。
私は来年は1位になると約束して、翌年優勝して金メダルと10000ドルもらった。
-(インタビュアーが言ってることが***???自分の例だと両親にだんだん似てくるとか)
プル:私はママとパパに似てる
ヤナ:いいえ、彼はママに性格が似ていて、彼には強い性格がある。ママは社交的な善良な女性だけど、とても強い女性です。ひとたびやるべきこと、目標を立てたらそれがすべてという特徴があります。
-部分的にご自分についても言ってるわけですね。女性はそういうところがありますね(みたいな??)
ヤナ:みんなが言うし、実際タチヤナ・ワシーリエブナ(ママ)が言うんだけど、私たちは性格が似てるって。
-あなたは家族では一人兄弟でした?
ヤナ:そうです。パパは軍の飛行士で。ガガーリン記念海軍アカデミーを卒業して。ロシアでは飛行士は難しく、スポーツの飛行士の選抜チームをトレーニングしてる。
ママは医者で。
-名前は?
ヤナ:スベトラーナ・ニコラエヴナ。精神科医。医学部の修士。彼女が医学が好きだから私も医大を卒業した。私は美のサロンを開いて美容術の医師として応用できました。だから最初の専門が私の人生を大きく助けてくれて、今も助けてくれています。
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(結婚式の映像)
(ナレーター)結婚式は2009年9月12日に行われた。すでに2度目の結婚になるが、今度は永遠のものになると私たちは信じている。
-真剣なつきあいになったのはどのようにして?反対にあなたにもですが。お互いをどのように信頼していますか?大人は個人的な人生ではとても慎重になりますね?
プル:私は初めての時からです。
ヤナ:第一に、彼は信頼できる友人です。第二に彼はとても強く、子供たちを助けてくれました。子供たちは変わりました。彼の男性としての性格のお蔭で。彼の子供達への愛のおかげで。特にスポーツに対してどんな贈り物をくれたでしょう。
1ヶ月イタリアに行ったときには、サッカーで遊んだり、10キロ走ったり、自転車で走ったり。トレーニングホールで滑ったり。
(長男、次男くんたちのことを語ってる。)
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ジェーニャも言っているけど、お母さんとは性格が似ているかどうかわからないけど。タチヤナ・ヴァシーリエブナ(ジェーニャママ)が言うには、最初の2つのオリンピックのメダルは彼女のメダルで、バンクーバーとソチのメダルは残念ながら、私たちのものだって。なぜなら私は彼の復帰のイニシアティブをとったから。バンクーバーの時は誰も信じなかった。2回目(ソチ)の時は家族でさえ信じなかった。正直言って多くの人は私を非難した。病気の人を復帰させてと。
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私は専門家を呼んで、信じた。彼らは復帰できるよう助け、また歩けるように学んだ。8カ月後オリンピックに出場してメダルを獲得できるとは誰も信じなかった。団体戦に出場して19点とって団体1位になり、個人戦に出られなかったのは残念だったけど。もちろん、もしネジが壊れなかったら、私の夢は2つオリンピックのメダルだったから。
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-ジェーニャ、そのネジを見せてくれる?
-これが壊れたネジ?今思うのはこれは男性ならわかると思うけどチタンのネジだ。チタンですね?
プル:チタンです。
-つまり最も強い金属の一つで出来ている。こういう風に折れたわけですね?
プル:そうそう。
-それが起きた時大きな音がしましたか?
プル:はい。筋肉が切断されて。
プル:焼けるように痛くなり始めた。これはまさに6分間練習で起こった。ショートプログラムの前の6分間練習で。3回転ループをやって、3回転ルッツをやって、3番目に3回転半アクセルをやった。3回転半アクセルを回って足で着地しようとして、完全に崩れた。支えをなくした。この後さらにエレメントをやろうとした。ちょっと待って腰を撫でて。
もう一度3回転半アクセルをやってとても悪くて足が崩れた。
この後、不可能だと決断した。
ヤナ:もう一ついくらかの人達が言っている瞬間があります。もし最初のウォーミングアップに出て行かなかったら、(もじゃもじゃもじゃ)転倒して・・・これこそ恐ろしいことになっていた。
プル:私は正しく着地した。
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(もじゃもじゃもじゃ)
プル:ありがたいことに今では2回目の手術を経て、1月に日本での試合で6人の強い選手達と競って優勝した。
ヤナ:これは1月の終わりでした。
プル:試合の後日本とトルコで理想的な4回転を跳んだ。
ヤナ:2013年、2014年は私の人生で最も困難な時期だった。前の夫と私の子供たちのことで争っていたから。一番大変な時だった。
-今は何が起こっていますか?
プル:今は私の妻と世界的な大きなショー「雪の王」をやっています。
ヤナ:このショーは世界的には「Ice King」「氷の王」と呼ばれています。プルシェンコがIce Kingと呼ばれています。これはアンデルセンの童話「雪の女王」をもとにしていますが、ここでは雪の王です。おとぎ話で話はちょっと違っています。ここにはオリジナルの音楽やアクロバット、サフロノフ兄弟の魔法使いがあります。素晴らしい国際的なフィギュアスケーター達のチームがあります。フィギュアスケーターだけでなく世界で唯一アクロバットの***
があります。
私がプロデュースした二つのショー、「チャンネル1」で放映された33歳のディーマ・ビランのショーと「雪の王」はロシアの最も良いショーのトップ5に入りました。****
スポーツのオスカーを受けるのは光栄なことで、彼は4回のオリンピックに出た唯一のフィギュアスケーターです。4回のオリンピックに出て4つのオリンピックのメダルを獲得したフィギュアスケーターは地球に他にいないのです。これは不可能なことだけど、彼はやりました。だから、私は知らないけど、彼は新しい4回転をやるかもしれないし。誰もわからないけど。
(二人で目を合わせて笑ってる)
-おわり-
最後はヤナさんのお話で終わりました~。プルシェンコさんは途中で入ろうとしてたけど、ヤナさんのお話で入れなかった感が。
ヤナさん美人で強~い。
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メモ:
最初のコーチ:タチヤナ・ニコラエブナ・スカラ 1986年~
二人目のコーチ:ミハイル・フリサンフォービッチ・マカヴェーエフ 1990年~
3人目のコーチ:アレクセイ・ミーシン 1994年~現在
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