愛と平和の弾薬庫

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

 世の中には中々手が出ない商品というのがあって、その昔の私にとってのそれは「インスト曲のシングル盤」だった気がする。少ないこずかいの中から500~600円を出して買うレコードに歌が入ってなくてもいいのか、それは私にとってちょっとした問題であったのだ。

 しかしそれが好きなテレビ番組のテーマ曲なら話は別だった。そこにハードルは一切なかった。こんなふうに。

 

 

 なぜそこにハードルがなかったのか。映像に負けないパンチ力があっさり数百円の壁を突き破ったのだ。

 けれどテレビに関係ない世界で鳴っていた曲にもやすやすとハードルを越えていったシングル盤が2枚だけあった。彼らはベンチャーズのようにシングルで勝負するアーチストではなかった。アルバム全体で売る方々だった。なのになぜか我が家にはその2枚はいまだにしっかり存在している。こんなふうに。

 

 

 

 この2曲を聴いたことがある方ならなぜ我が家にこれだけがインスト曲のシングルとして残されているのか理解していただけると思う。ELPのほうはルパン三世のテーマにも通じるパンチ力である。ベックのほうはこの一曲だけで十分に得られる満足感。むしろこの2曲はそれぞれこれだけで終った方がいいくらいの実力を持ち合わせているのだ。

 私の選択は非常に正しかった。今でもそう思ってます。

 ひさしぶりに南米の大河コージェーピーで買い物をしたらタダでっせ~とぷらいむ氏が言い寄ってきたので、はい、映画を見たのです。戦後にゴジラがやってきたヤァヤァヤァみたいなのを。

 いやあ、リアルってつまんねっすなあ。世界中で大絶賛らしいっすけど、話がクソ真面目にリアル方向に向かえば向かうほどシラケる。おれ、PCの前でひたすらため息。そっかぁ、こうなるんかぁ、やたらこええけど、俺だめだなぁ的なため息。そして見終わった後。

 見っけ。あ、これもあったんかぁ。これもシンなんかぁ。そっかぁ、でもなあまたリアル路線で現実的世界に絡んで来るんかなぁ、と疑いの目をキープしつつちらっとサワリを見ました。と。

 ほっほー、って感じ。これならうちの奥さんにもお勧めできるかもなあ。

 奥さん、「シン・ゴジラ」ダメな人だったんです。とうぜんそんな人物にマイナス1.0は見せられませんでした。一応聞いてみたけど、わたしゃけっこー、だったのです。そんな奥さんにも勧められるかも、ってのはすなわち怪獣グワーッ、決闘ギャーッ的展開が即座に見て取れたからです。何より懐かしの面々が続々登場してくださるという素晴しい展開。

 結果。

 怪獣、もとい、禍威獣ウッジャウジャ、ウルトラマンシュッワシュワの大爆発的ストレートストーリー。

 奥さん大満足でした。もっち、俺もね。

 もう二年も前の映画だから皆さんとっくにご覧になっておられるだろうが、もし見てない人、とくにショーワ出自のおっさんおばちゃんには大推挙なのです。

 

     

 自意識丸出しのタイトルだけど浮かんだものを書くしかない。

 初めて一人で暮らし始めたアパートは広瀬川のそばの六畳一間だったけど、四畳ほどの板間がキッチンみたいで初めての一人暮らしとしては贅沢な風情もあった。トイレと風呂は同じ空間だったけど、いわゆるユニットバスってんではなくて風呂の横にビニールカーテンで仕切られて洋式トイレがあった。

 家賃分だけは親から金が送られてきたから生活に不安はなかったけれど、食うものがない夜はしょっちゅうで、タバスコを舐めながらハイニッカをラッパ飲みしたりしていた。13だか14だかに親に与えられたバカでかいステレオセットと二万円で買ったエレキギターだけが人生のすべてだった。

 アルバイトとクラブ活動のために書いていたラジオドラマの脚本に時間は割かれて、本末転倒ではあったけれど大学の授業にはまったくでていなかった。当然、単位はまったく得られず三年に上がれず大学は二年で辞めた。一年から二年に上がる時の金を付き合ってた彼女の親に借りていたから、それは返さねばならず、母親の知り合いだというある男から金を50万円もらった。それくらいの金は払ってくれて当然の男だということだったが、その人が自分の実の父親だったと知ったのは30年後、こっちが50歳を過ぎてからだった。

 

 

               

 タクシーを降りて一ヶ月、ふとした瞬間に、五橋、連坊、八幡町、台原、国分町、一番町……市内の風景が眼前に浮かんでくる。

 俺、懐かしんでる? いや、ホッとしてるのだ。もうその場面の中に紛れ込んでいかなくてもいいんだ。俺はもうその世界の外にいるんだ。

 なんでそんなふうに安堵するのか。そんなに俺はタクシー稼業が苦痛だったのか?あの稼業の何がそんなに苦痛だったんだ?なんでそんな仕事を27年も続けてこれたんだ?

 最後のやつの答えは単純明白――他にやれることを見つけられなかったから。見つけようともしなかったから。他の仕事に移って失敗したくなかったから。他に何かができるとも思えなかったから。ただ怠惰にしていたかったから。

 などと今さら反省する気もない自分の怠惰を書き連ねたって何の意味もない。一番の続けられた理由はただ一つ。

 会社が存続してくれたから。

 そう。世の不景気やらコロナ不況やらでこの二十数年のあいだにどれだけのタクシー会社が潰れたことやら。どれだけのタクシー運転手が失職したか。それを考えたら、27年間同じ会社にいられた俺はどれだけ幸運だったのか。

 わざわざ自分から失業者になる理由なんてどこにもなかった、というわけである。

明日でタクシー運転手は終わり、という今日、くるりを聴いています。

「NIKKI」はロックのつまったアルバムのようで、好きになりそう、という64歳と9か月です。

実は最近惚れたのです。くるりに。

一曲一曲がはっきり違っていて面白い。素晴らしい才能です。

結局、年金が出始めるまで生き、タクシー運転手で時をつぶしてしまった。

あさってからが始まり、なんていう表現はあまりにも都合がよすぎるんだろうけれど、

正直そういう感慨に包まれています。

今までは義務から「働かされていた」と実感しているのです。

今さらかい、と言われそうだが、今さら的人生しか送れない俺のようだ。

奥手。頭が悪い。洞察力ゼロ。

しかし実際、はたちの頃に急に「働け!」とケツを叩かれ、それからガシガシやってきたのです。

だから本当に、あさってからが、勝負、なのです。

そうか。そうだったのか。実は今、やっとわかった。

そうかぁ、あさってからが勝負なのだったのか。

了解!

 

 

タクシーの運転手には簡単に出血してしまう部分があって、まあそこは何もタクシーの運転手に特有の安易出血部位ではなく、誰でも非常に傷つきやすい箇所なんだけれど、タクシー乗務員のそこを「とある言葉」で刺激すると、とんでもない量の血しぶきがあがり、言葉の発生源であるお客さんは返り血で溺れてしまうことがあるのでご注意ください。

 

その言葉はタクシー業界ではよく聞く言葉で、あまりによく聞くからお客さんは非常に軽い気持で発してしまうんであろうが、お客さんにとってはそこら辺に落ちてる不必要レシート程度の軽~い意味合いしか持たぬその言葉も、タクシー運転手に向けて発せられた途端、刃渡りなんと1メートル、なのに薄さは0.1ミリという、見た目からしてちょっとやばい感じの、しかも鋼鉄の強靭さを持つ大層見事な刃となってしまうのである。

 

「ちょっと高いわよねえ」

 

そう、高い、Fareが。

料金が高い、の「高い」。

その一言が刃の正体です。

その刃によって安易に真っ二つにされっちまうのはもちろん、ハート、心。

もう知れてたと思うけど。

 

まず、

今どきわざ遠回りして料金を上げようとする運転手などおりません。

それから、

いつもなら710円で着くところが810円になるくらいのことは、一回信号に引っかかっただけで起こることです。

そして信号を守るのも運転手のお仕事。

元々がタクシーは料金のはる乗り物。貧乏人の俺なんてもう10年は乗ってないっす。

 

わざと料金を上げようとする運転手などいない。

それどころかメーターが上がるたびに客以上にひりひりいらいらするのが運転手という生き物です。

いやまじでこれだけは信じてね。

そして決して返り血で溺れたりしないでね。

お願いだから。

去年あたりから、まるで土手の地面に吸い込まれたみたいに猫たちの姿が見えなくなった。

誰かが連れ去って家で飼ってると考えたいところだが、事実は調べようもない。

タクシー会社には一人ひとりが時期不定不詳にふらっと入社し、いつのまにかいなくなっている。

俺もそんな中の一人で、まもなく消えようとしている。

まるで、土手の上の猫たちだ。

 

そんな俺は自分が、どこでどんなふうに発生したかも覚えていない。

小学校に入るまでの記憶はたったひとつ。

園庭の上の空が真っ暗になり、滝のような雨が降ってきたこと――その時の世界の暗さ。

いやもうひとつ――間借りしていた家のトイレが外にあったこと。

まるで祭の時に現れる特設トイレみたいだった。寒かった。

 

まぼろしのように現れてきた自分。けむりのように立ち上がって形を得て、いまここに至る俺。

本当の意味で「自分」を得たのはあの一家離散の頃だったかもしれない。

なんてことをぼんやりまぼろしでも見るかのように感じている今日この頃です。

 

    

44年前のある日、アパートの家賃分だけは送ってもらったが、

「突然放り出された」の感は否めなかった。

幾分かは途方に暮れたと思う。

ただ、途方に暮れる、と感じられるような敏感さがなかった。

 

大学のクラブ(TGUの放送会)の仲間がいてくれたのも心強かった。

後輩の庄司徳男くんにはレンタカーを借りてきてくれてまで引越しを助けてもらった。

今にして思えば、本当に放送会のみんなには救われたんだと思う。

彼らがいなかったら、当時付き合っていたHやその家族に頼ってしまっていたかもしれない。

親が商売に失敗するってのはそういうことだった。

 

ほんとに今にして思えば……のことが多すぎるけれど、

どれだけ当時の自分が鈍感だったかってことだ。

この鈍感さゆえに生きてこれたのかもしれない。

要するに図々しいのだ、俺って人間は。

 

年季明けってのとはちょっと違うのはわかっちゃいるが、

なんとはなし気持ちがそんな感じに傾くのは、

働かなくちゃならない、という観念から解放される日が刻一刻と歩み寄ってきてるからだろうね。

だってほんとに職業を選ぶなんて権利はないに等しかったから。

晴れて自由の身、そして青空。

そんな感慨。

嘘だろってくらいの早さ、いや、速さ、速度で一年が終ろうとしている。

そうなのだ。2023年はあと一週間で終るのだ。

いつからだろうとつい考える。

いつから一年がこんな速度で駆け抜けていってしまうようになったのか、と。

40才を過ぎてからだろうか。50? 60?

それともタクシー運転手なんて仕事に就いてからだっけ?

まあ、と一応の結論を俺は出す。50ぐらいだよな。

しかし今年は異常だ。これまでで最速だ。きっと時速500キロぐらい。

それくらい今年は早かった。2023年なんておとといくらいに始まった感覚なんだから。

ともかく終る。The End。

まいふれんどじえんど。

 

 

Come Back Here, 伊集院さん!