東日本大震災の前、岩手県陸前高田市の高田松原には、7万本の松があったが、津波によって「奇跡の一本松」を残してすべて流されてしまった。

 

 

これを惜しむ人たちが、震災犠牲者の鎮魂と記憶の伝承のために、松を様々なかたちに再生してきた。

お守り、バイオリン、万年筆…。

そして、仏像があった。

 

 

京都・清水寺の大日如来坐像には流木30本分が使われている。

住民の反対で「五山の送り火」の薪になれなかった松は、200体を超える小像となり、陸前高田市の普門寺に納められた。いずれも制作にあたったのは京都伝統工芸大学校の学生である。また、奈良県の當麻寺中之坊などが中心となって「あゆみ観音」が制作され、同市で再建された立山観音堂に迎えられている。

 

 

仏像は千年単位の時を超え、彫った人と見る人を結縁する。後代の人は尊容を通じて平成の大災害に思いを致すことだろう。

 

 

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如意輪観音像(東山白山神社蔵)

 

 

江戸時代、同じように鎮魂のためにノミを振るった修行僧がいた。

 
 

美濃(岐阜県羽島市)の人、円空(1632~1695)である。余り仏像に興味のない方も、あの親しみやすい微笑をどこかで見たことがあろうかと思う。

 
 

32歳で仏像を彫り始め、64歳で入定するまでの間に、12万体の仏像を制作したと言われている(現存は約5300体)。一日10体以上の驚異的なペースだ。鬼気迫るものがあったことだろう。なぜ、そこまで憑かれたように彫り続けたのか。

 

 

「円空 微笑みの謎」(長谷川公茂著)によると、円空は婚外子として生まれ、水害で幼くして母親を亡くし、僧籍に入ったという。羽島市は木曽川と長良川に挟まれた低湿地で洪水が絶えなかった。

 

 

「わが母の 命に代る 袈裟なれや 法のみかげは 万代をへん」(円空)

母の死によって着ることになった袈裟。母の命を奪った災害と彼の仏道修行とは深くかかわっていたに違いない。

 

 

「誰も来ないようなところにひっそりとおかれている円空仏がある。それはおそらく地の霊を鎮めるためにおかれたのであろう。円空はおそらく、日本全国にある悲惨な死者の霊の鎮魂のために仏像を造ったのであろう」。

梅原猛は、円空の造仏の動機が、

地を鎮め、死者の魂を鎮めるためだったと考えている。

 

 

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円空は仏像を彫り始めてまもなく北海道に渡った。

岐阜からなぜ遠い北海道を目指したのだろうか。

 

 

当時の北海道は災害が相次いでいた。

1640年の駒ヶ岳噴火による津波では700人以上が溺死した

1663年には有珠山が噴火、同じ年に豪雨禍もあって多数の死者が出た。

 

 

有珠山のふもと、洞爺湖の島にある観音堂には、円空の背名入りの観音像がある。この観音像を彫ったのは有珠山噴火の3年後。有珠山はアイヌにとって聖なる山で誰も登らなかったが、あえて円空は登った。山の神霊にじかに触れて鎮めなければならないと、考えたのだろうか。北海道で確認されている円空仏は41体。そのほとんどが、一切の衆生を救うという観音菩薩像だった。

 

 

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十一面観音(岐阜県羽島市の観音堂蔵)

 

 

岐阜に帰った円空は、母の三十三回忌供養のため十一面観音を彫り、生誕地の羽島市に建てた観音堂に奉安した。222センチの大作である。近年、レントゲン撮影したところ、像内に鏡があることがわかった。円空は、鏡を「忘れ形見」とする歌を詠んでいる。亡母のための大作制作と形見の納入は、彼にとって仏像がどういう意味を持っていたのかを暗示している。

 

 

仏像は、母を鎮魂し、母と同様に非業の死を遂げた人々を鎮魂する。そして夥しい死をもたらす大地を鎮める。円空が憑かれたように彫ったのは、その思いの強さの顕れだろう。円空仏の微笑は、悲しみの果ての微笑であった。だから、胸にしみる。

 

 

円空は母の眠る地、長良川河畔で入定した。

長谷川氏は、これを仏像の刻書から即身仏となっての死、つまり食物を断って自ら土中に入って入寂したのではないかと見ている。即身仏になるのは、567000万年後に下生する弥勒菩薩の衆生救済を助けるためであるが、円空の場合、自ら地霊となって大地を鎮めようとしたのではないかとも思う。

 
 
観音菩薩像(愛知県尾張旭市の観音堂蔵)