仏教について久しぶりに書きます。

今ぼくは月1回、京都で「あたらしい仏教」という講座を

開いています。

「あたらしい」と付けたのは、既存の仏教を現代的に捉え

直してみたいと思ったからです。

鎌倉期に仏教はもうすでに「末法」の時代だといわれていた

のですから、今はどういえばいいのでしょうか。

ある人は「無法」の時代だといっています。たしかに、現代は

ポリシーのない無法者が多いことは事実です。

ぼくが試みているのは、既存の仏教を探究しつつ、現代の

問題にどのように生かしていけるかということです。

干乾びている教えではなく、現代人の精神がそれを受けとられ

なくなっているというのが本当のところでしょう。

仏教が古びてみえるのは、現代人の精神が捉えられなくなって

いるからでしょう。

シュタイナーは次のように言っていました。

〈偉大な仏陀の教義として世に現われたものは、ある段階までの

理念の高み、霊の純粋なエーテルの高みまで上昇した者にのみ

理解可能な世界観でした。〉(「仏教とルカ福音書」『仏陀からキリストへ』所収)

それほど「仏陀の教義」は高度な教えなのです。現代人のうすっぺらな

精神ではとても読み解くことはできないでしょうし、あたらしく

刷新することは困難な作業でしょう。

現代人の特徴のひとつは、自分の精神に必要なものを激しく避けること

です。これもシュタイナーが語っていたことです。

通過儀礼が成り立たない近代以降の世界の中で、自らの精神を発達

させることをひたすら避けてきた結果が今の世界です。

仏教の教えは死んではいません。いろんな形で残されています。

その遺産をわれわれはどう活かしていけばいいかを、シュタイナーの

提出した「アントロポゾフィー(人智学)」を認識の道具として

探究していこうと思うのです。

直前になりましたが、「あたらしい仏教」講座のお知らせです。


■《あたらしい仏教》講座

日時:6月2日(土)午後2時から5時

場所:ウィングス京都:http://www.wings-kyoto.jp
(部屋は玄関の電子掲示板に載せてあります。)


前回は「ある段階に達している見者」に対して、自分のエゴイズムを克服して

全幅の「信頼」をおくということが、霊的進化の第一歩ということでした。

次の段落に進みます。『神智学の門前にて』第12章の続きです。


OCCULT DEVELOPMENT

There are three paths of occult development: the Eastern,

the Christian-Gnostic and the Christian-Rosicrucian, or

simply the Rosicrucian. They are distinguished above all by

the extent to which the pupil surrenders himself to his teacher.

What, then, happens to a man who enters on occult development?

What are the necessary preconditions for it?

(訳)オカルト的発展には3つの道がある。東洋の道、キリスト教的グノーシス

の道、そしてキリスト教的バラ十字、あるいは単にバラ十字の道である。これらは

とりわけ、弟子が師匠に身をゆだねる程度によって区別されている。それでは、

オカルト的発展に進む人にはどんなことが起こるのだろうか。また、オカルト的

発展のための前提条件とはどんなものであるのか。


「オカルト的修行」の3つの道、つまり修行法があることを、先ずシュタイナーは

示しました。人間が霊的(精神的)に発展していく方法は現代では全くと言って

いいほど考慮されていません。何か特別なことをするのではないのです。

オカルト的修行は「人間の真の本質と至高目標とに係わる問題」なのです。それに

係わろうとしないことは、人類の将来に係わろうとしないことだとシュタイナーは

書いています。(『神智学』序章参照)

集団的な通過儀礼が成り立たない近代以降は、個人的な修行(自己教育)しかない

のです。これがわからないかぎり、個人の向上はのぞめません。
英語の勉強はまあ順調にすすんでいます。

『神智学の門前にて』の続きにいきましょう。

エゴイズムの克服すべし、という続きです。


That implies a lack of trust. He must trust a person who has reached

a certain stage of development. People work together, and if someone

has achieved more than others, he will not have achieved it for himself

alone but for all the others, and they are called upon to listen to

him. By this means his own powers are enhanced, and his hearers,

through the very fact of having first given him their trust, will

gradually became able to gain knowledge of themselves. You should

not want to take a second step before the first.


(私訳)(前の発言を受けて)そこには信頼が欠けています。修行者は進化のある

段階に達した人を信頼すべきです。人々は何事も共同して働きます。だれかが他者

よりも高みに達したとしたら、それは自分自身のためではなく、すべての他の人々

のためにそうしたのです。そして、他の人々はその人のところへ訪れ、話を聴くのです。

そうすることで、彼ら自身の力は高められます。まさに信頼することをとおして、

話を聴く人たちは徐々に自分自身で高次の知識を獲得できるようになっていくのです。

一歩めを歩む前に二歩めを望むべきではありません。



見者に対する「信頼」について言っています。しかし、現代はだれが見者であるか

わからなくなっています。自分の直観を信じるしかありませんね。