こんな私の声を聞きたがる人がいて、こんな私に逢いたいと言ってくれる人がいて、
その瞬間瞬間にえもいわれぬ気持ちが襲って来て押しつぶされて、
ありがとうが上手く伝えられないもどかしさに奥歯をぎりぎり噛んでいる。

相手が微笑んで話すことも、相手が届かなかった悔しさを話すときも、
相手が傷を負って傷みを話すときも、相手が手を打って楽しい話しにリズムを取るときも、私は相づちを打つ。
それは大太鼓だったり、鼓だったり、鼓笛隊の様に小太鼓を華麗に回していたり、シンバルだったりして、
決して弦楽器のように流線を描いてはいないと思うけれど、話しのステップを踏むためのリズムを刻みたいと思っている。

$エッセイスト料理家ROMAKOの『好きな人と好きなモノを好きな時に好きなだけ食べる』-無花果のスバゲティ

そんな風に私が相づちを打つ人は家にやってくる。
世の中では大事なことを担い、とても大きな存在としてその場所にいる人が我が家の小さくて狭いダイニングのテーブルにちゅんと座っている。
肘をつくでもなく、既に乗っている料理に手を付けるでもなくちゅんと座っている。
前回訪れたときと何も変わらないことを愛おしむように、深くゆっくりと呼吸をしているのだろう。
その変わらない姿に私が愛おしさを募らせる。

さぁ!召し上がれ!
フォークとナイフの奏でる音で、もうひとつ話しに花を咲かせましょ。
そして私は何度も何度もそうだねと、頑張ったんだねと言う。
こんな私は、本当にそれで良かったと思っていることが伝わったら嬉しいと願いながら相づちを打つ。