料理番組は数あれど、日本の料理番組と海外の料理番組の違いはその食材を取扱う時に表れるような気がする。
なんでこんなことをブログに書いているのかと言うと、ためにためたEテレの「きょうの料理」とその流れで続く「きょうの料理ビギナーズ」、
それとD-lifeの「ナイジェラのシンプルキッチン」「ジェイミー・オリヴァーの30MM~ぼくのクッキング・スタイル~」を、
今日はひたすら観ている。
料理番組を観るのは、レシピを作る上でとても刺激を受けるし、勉強にもなるし楽しいけれど、料理家にフォーカスをしている海外の料理番組と、
食材と料理にフォーカスをして、料理家がとっかえひっかえレシピを紹介するEテレの料理番組を観ていると、
自分の好みがフォーカスされてきたのに気付いた。
ココで書く自分の好みというのは、番組についてではなく『料理をする』ということに対してのことだと前置きをしておく。

$エッセイスト料理家ROMAKOの『好きな人と好きなモノを好きな時に好きなだけ食べる』-ケークサレ

結論から言えば圧倒的に海外だ。
如何にひとつの形には当てはめられないものだと根底に脈々と流れる息づかいと、
料理をする人に対して、その社会的地位がしっかり根付いている感じがするのだ。
素材の好き嫌い、得手不得手、味の好み、手法、そういったもの全てその料理家にゆだね任せ開けっぴろげだ。
その料理を好きだと思う人も入れば嫌いだという人もいて当然なのだからと、いい意味で開き直りと視聴者に迎合しない感じがする。
ナイジェラもジェイミーもエプロンすらしないし、今そこで買って来たというパッケージのまま料理をしている。
それすらも狙いか?とうがらずに、料理をするということに長けているけれど、
それ以外はみんなと同じ目線だという安心感をもたらす効果もあるのではないだろうか。
それに私が上手いなぁ~と思うのは、食材を必ず別な容器に移しているというところ。
ナッツもパスタも大きな専用のガラス容器に入っていたり、小麦粉や砂糖はホーローの容器に入っていたり、
オイルも専用のキャップがついたオイル瓶に収まっていて毎回登場する。
必要な量が小分けにされているのは無く、そこからものすごく適当に使っていく感じも好きだ。
当然、どこの何を使っているかなんて皆目分からないけれど、それすら構うことはないのだという突き抜けた感じも好きだ。
スポンサーの存在を思わなくもないけれど、きっと製作手法の違いがここにあるのだろう。
料理家たちのアフレコの台詞は分量を言うけれど、見てるとちょっと妖しかったりするのも楽しい。
監修する人は観ながらアフレコ用にレシピの分量を起しているのだとしたら、大変だと思ったりもするけれど。

そうして私は思い始めるのだ。
『料理をする』ということに対して、専門の学校を出ていない私は実は世間から肩身が狭かったりする場面がある。
所詮料理好きの延長線上でしかないというレッテルを貼られやすい。
調理場の経験だってまともに無い私は確かにその通りかもしれない。
だけど料理家の私の為すことは、食す歓びでも作る嬉しさでも添加物の怖さを語るでもない。
たったひとつしかない『レシピという調理法』をひたすら生むことだ。
こんな風にしたらいい、こうゆうのはどう?そう言えばあんな方法もあった、
○○さんのレシピ本ではこんな感じだったし、農家の○○さんはこうするって言ってた・・・。
目の前にあるメイン素材や飲みたいワインに対して、ひたすらレシピを思いつくまま考えつくまま頭の中で咀嚼し味わい自分のレシピにしていく。
そして、自分の店を持たない私はどの料理人に作って欲しいかと想いを巡らせる。
ファッションデザイナーが自分のパタンナーを持つのと同じように、シェフではなくコックが欲しい。
レシピを考えるのと調理をするのを両方兼ね備えている人は、すでに店を持っているだろうと笑い、でもどうよ?と巡る。

なぜなら、私は万人に対して料理は出来ない。
お互いを認め合った、愛しい人にしか振る舞えないという致命的な欠陥がある。
もう白旗は随分前にあげた。
レシピを生むことしかできない私と、調理をすることしかできませんという調理人で織りなすしかない。
どこまでも私は宴の中にいて、そこでの歓喜ののろしを文字にしていく。
織りなされた料理を作る顔と味合う顔の中にいて、それを繋いでいたい。
だから、エッセイストで料理家だと改めて宣言させてもらおう。

・・・・たまった料理番組を観ながら思うことでもないか。