本人の抱える、とまではいかなくても、日々に横たわる不条理と矛盾、理不尽な出来事をかわいいわと、ひと言で済ませていいのだろうか。
彼女の語りは、一昔前の私だ。
それは人生のすべき経験だからと、私は対岸にいて彼女が渡るのを見守ることでいいのかもしれない。
だけど、重なってしまうのだ。
彼女の心の襞にはびこる小さなもがきは、私にも鮮明に残る記憶があるから。

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そして学ぶ。
私にはもう断片になって、かけらになってしまったのかもしれないけれど、彼女の語りに触れていると、
この未熟でどうしようもないくらい小さな世界の中の事柄が、この先の人生を歩むのにとても必要なことだったのだとわかる。
彼女の話しを聞きながら、自分のそのときの気持ちを味わっている。
その結末の苦い記憶も、寂しい気持ちも悲しい思いも、そしてさもしさを知ったあの時を。
そして、どんな風にそこから抜け出したのかも同時に味わっている。
苦い記憶は甘い記憶を持って来たし、寂しい気持ちと悲しい気持ちはずっと包まれている安心感に繋がっていたし、
さもしさは、計ったり判断したりできる自分磨きになった。
だから、それだけでいいのかもしれないって思える。
むしろ、それしか出来ないのかもしれないとさえ思う。
なぜなら、そこにはどうしても埋められない経験値の差があるから。
だから何をせずとも、時が人を促し、時が人を学ばせ、時が人を導くという摂理を願い、信じようと思う。
ただただ歩んでいるだけでも、人は前に進み学びいくようにプログラムされているとどこかで聞いた。
彼女の今が他人から見れば寄り道だったり、遠回りな道に映っていたとしても、それを受け入れ見守ることが私の役目なのかもしれないと思った。
その役目を担うために、私はまた自分なりに積める経験をして磨けばいい。
気持ちに年齢は関係ないけれど、生きることには年齢と言う順番があるほうが楽なのだから。

そんな夜だった。