僭越ながら私も。

私がストーンズのライブを初めて観たのは、1995年2度目の来日の時であった。

遡って1992年(当時中2)頃、確か「sticky fingers」だったと思う、ストーンズを近くのレコード屋で買い、初めて聞いた。

ロックの名盤と、名高いから。そんな理由だった。

「なんか、意外とスカスカしてるな。」

それが率直な感想だったと思う。

多分それは今振り返ると、当時ハードロック全盛でラジオやTVから流れてくる音楽が音圧バリバリ、シンセびゅんびゅん、ドラムがドムドムしていたから、ということと、

『ローリングストーンズ』という語感がいかにも"イカツく"へヴィーで、しばしストーンズに冠される「king of rock」なイメージが何か当時の音世相と相まって誤変換され、余計なイメージを増幅させていたからだろうと思う。

「けど、なんか今まで感じたことのない懐かしい感じがするな。そしてジャケットカッコイイね。」

これもまた、同時に感じたことだった。

それから、ボチボチ「let it bleed」を皮切りに他のアルバムも揃えていった。

当時一番好きな曲は、「アンジー」。

僕は何故かストーンズのスローテンポ、バラード曲が好きだった。

なんか、情けなくて、どうしようもなくて、切ない。そんな感じが好きだった。

変な、中学生だな、今考えると。やっぱり。

話を戻して1995年東京ドーム。

僕はストーンズを観た。

腰がクネクネ動いた。そんなの初めてだった。

僕が動かしだんじゃなくて、誰かが何かが僕の腰をクネクネ動かしていた。

そんなの初めてだった。

それまでは、垂直方向しか知らない、縦ノリ専門だったのに。

興奮冷めやらずその後、福岡ドームのチケットも取ることとなる。

そして、現在。

「ロック」という意味が漸く分かり始めた気がする。

それは『A BIGGER BANG』を聞いてから。

amebabooks 長井

追伸:

今日、山川さんとズボンズのドン松尾さんの対談がありました。

その模様はまた別途サイト等に掲載出来ると思います。

 全編読んでみて、通しでの感想、というと、なんか、本を手にして、とにもかくにもワクワクしながら紙をめくって、で、気に入った言葉なんか目にして、ウオー!!とかアホの子みたいに興奮したりなんかしていることなんか、でも、実はそれなりに年齢もいってしまっているので、コロっと忘れたりしちゃうんだが、せっかくだし、そんなことを書こうと思いつきました。まだ、20ページほどしか読んでいないけど。

 「読書感想!」一人目、ズサーッ!!、やりたかったし。


 「ディズニーと仕事するなんて、考えただけでゾッとするぜ」

キタキタキタ。現代コンテンツビジネスの大本山。それを相手にこんなことを言えるのも、キースぐらいのものだろう。もちろん、そんな仕組みの中にストーンズもしっかり組み込まれて入るのだけれど、距離を置くというわけでもなく、ある意味そん中にしっかりズブズブなんだけど、明らかにディズニー的コンテンツなんとか、とは異質。

 少なくとも、ディズニー的な、教条的というか、・・・・・・やめた。今更書くまでも無い。ただ、浦安の遊園地に行きたくないと言ってガールフレンドと喧嘩してしまうぐらいディズニーワールドが嫌いで、ストーンズが好きなボクには胸のすくような言葉だった。



 「俺とミックがスタジオに入ると、その空間がザ・ローリング・ストーンズになるのさ」

 帯に「ミック&キースの友情」という言葉が踊っているが、まぁ、きっと間違いじゃないんだろうけど、どこか「友情」なんて言葉にも違和感を感じてみたり。どこで読んだかなぁ、去年のある雑誌で読んだのは、あるジャーナリストの'70年代前半の回想だったと思うが、ある部屋でキースと取り巻きのジャーナリストがハッパかなんかキメている。そこにミックがやってくるわけだが、なんとも「お呼びでない」感が漂う気まずい雰囲気になって、というような文章だった。要するに、反目なんて、単純な言葉では書き表せないような空気が二人に間にはあって。これは有名なこと。

 で、2005年の上記のキース・リチャーズの言葉である。なにはともあれ、彼らはストーンズとして時を重ねたという厳然たる事実。その時間の重さを感じさせる言葉なのだ。友愛とか、もちろん、ヤヲイ的なものでもない。今でも「好きか? 嫌いか?」と問うと、「実は嫌い」という言葉が返ってくるかもしれないけれど、それを超えた信頼感、お互いの尊厳を認める、それを表す、これ以上の言葉は無いと思った。


 一方で、誰も思っていて口には出さないかもしれないけれど、ストーンズにも聴いているボクらにも老いはやってくる。老いとロック。


 さらにこれから読み進める。別にそれについての示唆を受けようなんて思っているわけではないのだが。



 いきなりこんなネガティブな発言をしてしまうのもどうかとは思うのですが、書いてしまいます。


 2006年のローリングストーンズの来日は僕らを最高に高揚させてくれて、最高にハッピーな気持ちにさせてくれます!!が、しかし、仙台人の僕にとってはもうなんともいえない、歯がゆいというか寂しいというかそんな気持ちです。

 なぜならばグランディ21での公演がロッキンオンにまでしっかり告知されたにも関わらず、今現在、開催の発表は無いし、公演自体が消滅したような情報が飛び交っています。自分の生まれた土地にストーンズがやってくるという夢のような話に最高に興奮し、最高に浮かれて、そして最高にハッピーな気分になっていました。それがこのままではぬか喜びで終わってしまう・・・。

 

 もちろん、東京ドームの公演もあるし、どこかにストーンズを観にいくつもりではいますが。


 僕はストーンズ暦13年のまだまだ見習いレベルなのですが、73年の幻の来日の時の気持ちが、少しだけわかるような気がします。  


 仙台にこないかなあ、ストーンズ。


 

 デッカ時代の曲を集めたLP。赤いジャケットに真ん中でミックが彼にしかありえないようなポーズで歌っている写真。小遣いで買ったそのレコードが、ストーンズをストーンズとして意識して買った最初だった。中学2年の秋のこと。中学校の僕のクラスの男子というのは、当時の中学生にしては変わっていたんじゃないかと思う。兄貴がいない長男ばかりだったのに、最新ヒット曲には興味がなくそのときでチョい古め洋楽を聴くヤツばっかりだった。70年代の終わりのこと。


 日本中に「"tell me"聴いた時、ヤベ不良になっちまう」なんて思った男子って日本中にどれくらいいるのだろう。ある夕方、ボクもそんな感覚に襲われた。同様のクダリ、山川氏の文章に見つけた時というのは、大学生になってからだけど、これって、一体どういうわけかねぇ、なんて、一人苦笑した。


 それを追求すると、何かボクにとっての根源的なところに近づいていきそうな気がするが、適当に言葉はでっち上げられてもそれが本当かともう一度思い直すと、全然そうじゃないような気がしてしまう、いつも。


 ズキンと胸の辺り、痛かったよなぁ、中学生のあの時は。今でもうすぼんやりと思い出す。


                                                    (Selgey Kattvinsky)